別ブログもやっております! 50年間の役目を終えた「長岡市厚生会館」! その静かなる有終の日々…
「MOANIN' 長岡市厚生会館」

Thursday, December 04, 2008

荒俣宏講演会に行ってきた



11月23日(日) 長岡市のホテルニューオータニ・NCホールに出かけて、「NPO法人 醸造の町 摂田屋町おこしの会」 が主催した、『機那サフラン酒本舗 鏝絵蔵修復記念 荒俣宏講演会・うわべを飾るアート 鏝絵(こてえ)』 を聞いてきた。


↓修復なった、サフラン酒造の鏝絵蔵

 荒俣さんが長岡にいらして、鏝絵蔵についてお話をされるのは、2年前に続いて2度目だそうだ。私は前回は聞き逃して、今回が初の生アラマタだった。


 荒俣さんのお話の骨子は、鏝絵を 「うわべを飾るもの」 と捉え、長岡・摂田屋のサフラン酒造の鏝絵が、古今東西の 「うわべを飾るもの」 の中で、どのように位置づけられると考えられるのか、スライドを交えて、荒俣さんの見立てを紹介するというものだった。
 どんな感じの内容だったかと言うと…
 ↓


 サフラン酒造の鏝絵蔵の特徴は、なんと言っても、その原色の濃さ、「ケバさ」 にある。それはいわゆる日本的なわびさびとは対極にあり、他には日光東照宮の例もあるが、雪深い長岡の地にそのような実例が見られるのは興味深い。


 鏝絵で名高いのは 『伊豆の長八』 だが、長八が活躍したのは江戸末期から明治にかけてであり、大正期に建てられたサフラン酒造蔵とは、時代的にも技術伝播の面でも直接の関係は無いようだ。


 その長八には、明治期の新日本政府がたいへん注目していた。理由は、西洋建築技術を日本に取り入れる際に、特にそのインテリアの装飾を再現するという点において、鏝絵の技術が有用だと考えられたためである。


 西洋建築の華美なインテリアは、壁面のしっくいが乾かないうちに絵を描いて定着させるフレスコ画と、壁面に立体造形をほどこすレリーフから成る。鏝絵はそのどちらにも対応できる技術というわけだ。
 さらにインテリアだけでなく外壁にも用いることができ、例えば西洋建築の外壁によく見られるトロンプ・ルイユ的 「だまし窓」 の再現などにも応用できると考えられた。


 しかし、左官技術である鏝絵は施工にたいへんな時間がかかること、ユニット化・パーツ化にはそぐわないものであることから、技術が広まるには至らなかった。特に今から40~50年前くらいから急速に、左官が鏝絵の腕を振るうことのできる場が無くなっていった。


 最近でこそ鏝絵は世間から多少は注目されるようになってきたが、荒俣さんらが 「路上観察」 として、鏝絵を含めた在野の奇妙な造形物の事例を、感性のままに収集し、夜ごと報告しあって楽しむ活動を始めた20年ほど前は、鏝絵とそれを見つめる人々のことは、世間からはまったくかえりみられることは無かった。
 (ちなみに、路上観察の感性とは、松尾芭蕉の言う 「もののあはれ」 と同様のものであるそうだ。)


 鏝絵がほどこされた蔵や社寺の実例は、大分県や島根県など各所で見られる。大分県安心院町(あじむちょう)では、現役の鏝絵師も活躍しているようだ。荒俣さん自身も東京根津で、壊される直前の建物に鏝絵を見つけ、壁ごと保存したりしている。


 サフラン酒造と同時期の建築に、伊東忠太が設計した築地本願寺がある。忠太は「すべての建築は木から土へ、石へ進化する」 と唱えたそうで、関東大震災を経験した時代の要請もあり、寺社仏閣の設計に鉄筋コンクリート造を採用した。しかしその表面には異形の動物を彫刻したり、コンクリートの外部柱の仕上げ材に漆を用いたりした。(耐火被覆として?)
 まさに 「うわべを飾る」 大家であった。


 それでは、21世紀において、鏝絵の持つ意味とは何か。
 その答えとして、左官職が、物(もの)と霊(モノ)との掛け渡しをしてきた仕事であることに注目したい。


 象徴や守り神といった精神的な作用を、目に見える形に表現してきたのが、左官の仕事であった。神社などに見られる龍のモチーフは水のシンボルであり、建物の防火を意味する。
 同様の例は西洋でも見られる。例えば、ライオンは 「門番」 を象徴している。それが理由でドアノッカーはライオンの形をしている。
 鏝絵が奇怪なのは、装飾が呪術と深い関わりがあったことと関係している。「呪術としての装飾」 の究極のものは、西洋に見られる 「グロッタ」 である。


 つまり、「うわべを飾るもの」 とは、霊を鎮める仕事である。鏝絵が注目されているのは、21世紀は精神的なものがますます重要になるという予感が、皆にあるからではないだろうか。


 例えば銭湯に付き物のタイル絵やペンキ絵も、身近にある呪術としての装飾であり、「うわべを飾るもの」 である。
 皆さんも街に出て、そのような装飾を探して楽しんでみてはいかがだろうか。
 (荒俣さんは最後に、「通販で買える銭湯のペンキ絵もあります」 と話し、壁に小さな富士山の絵を貼り付けた一般家庭の風呂に、男性が笑いながら浸かっている写真で、講演は締めくくられた。)



 …というような内容でした。 
 私が荒俣さんのお話を聞いて一番印象的だったのは、「サフラン酒造鏝絵蔵と築地本願寺が、同じ時代(大正)の建物である」 ということだった。
 私はそれを聞いて、むしろ伊東忠太の方に関心を引かれた。


 忠太のことはあまり詳しくないが、私には彼の仕事が、寺社建築にRC造を採用するなど、すごく 「大正時代」 を体現しているように感じられた。そのくせ、私のこれまでの見聞の範囲からも、また今回の荒俣さんのお話からも、やっぱり伊東忠太は帝大出のエリートのくせに、「うわべを飾る大家」 というイメージがぴったりである。
 私はその振れ幅に魅力を感じたのかなあ、と思った。


 反面、サフラン酒造蔵は造形的・図像学的にはきわめて面白いが、意味合いから言うと、連綿と続く左官の技術としての 「うわべを飾るもの」 を正調に受け継ぐものであり、ベクトルはむしろ過去の方向を向いている。そこには例えば、新しい時代の技術と折り合いを付けようと苦心したような跡などは、あまり無いように見える。
 その点で私には、これが大正時代の建物であるということに、少し意外さを感じた。伊東忠太と並べて提示されたので、このことに初めて気がついた。


 講演会の質問タイムでは、私は荒俣さんに、サフラン酒造蔵と伊東忠太が同時代の存在であることについて、ぜひ聞いてみようと思った。だが私の関心はどちらかというと忠太の振れ幅のほうにあったので、「荒俣さんにどう聞いたらいいのかなあ。今日の荒俣さんの主張は 『街で装飾(呪術)を見つけよう』 ということだったから、ハイブリッドな存在としての忠太のことについては、あまりお答えはもらえなさそうな感じだなあ。さてどう聞くか」 と考えていた。


 しかし講演会では質問タイムは設けられず、荒俣さんはお話を終えると、すぐに退席されてしまった。終了後に、主催者側のおひとりだった渡辺誠介・長岡造形大准教授にお会いしたので、少しお話を聞くと、前回荒俣さんが講演にいらしたときに、質問タイムで非常にマニアックな質問が出て、一般のお客さんが多少引いたり、質問がそのひとつしか受けられなかったりしたので、今回はあえて質問タイムを設けなかった、ということであった。…そうでしたか。


 前回の質問がどんなものだったか分かりませんが、私の質問もたぶん十二分にマニアックなものなので、まあ良かったのかな。おそらく荒俣さんを交えて内輪の懇親会などが開かれたであろうから、お願いして参加させてもらってもよかったが、私はこの日、後に別の用事があったので、叶わなかった。


 荒俣さんはテレビなどで見るとおり、とてもお話が達者で、自分の話す内容が自分で面白くて仕方がないというような、聞いていて引き込まれるお話ぶりだった。伊東忠太についての知見は得られなかったが、生で荒俣さんのお話を聞けたことはとても面白かった。そして荒俣さんの立ち位置も講演の結論も、あくまで 「もののあはれの建築探偵」 であった。


 ここで告白すると、私は建築探偵団や、「建築と都市を考える会」での「街歩き」活動は、実はいまひとつ苦手なのだ。「おまえもこのブログで同じようなことをやっているだろう」 と言われると、まあその通りなんだが、個人の問題意識で活動するのは面白いが、集団で事例をただ集めることは面白くないのだ。例えば集めた事例をもとに皆で分類してみたり話し合ってみたりすると、がぜん面白くなるんだが、いまのところ建都会街歩きは、集めた事例をそのまま提示して終わりの 「街歩きファイル」 というフォーマット止まりなので、私には面白くないのである。
 建築探偵=路上観察については実は批評できるほど詳しくないのであるが、何と言ってもパイオニアであるし(あるいは今和次郎を祖とする「中興の祖」?)以前に藤森照信さんの展覧会に行ったときに、路上観察の発足当時に、全員が燕尾服姿で路上に立って 「路上観察学会宣言」 を読み上げている写真を見ているので、「そこまでの本気には誰も文句は言えないなあ」 という気がする。


 しかし建都会の 「街歩きファイル」 にはまずもって、それを見てくれる一般の人々の、街への関心を喚起しようという意図がある。今回の荒俣さんの講演の結論も同様のものであったし、建都会が昨年のグループ作品展 『景観しよう!』 や先日の近代建築シンポジウムで主張してきたことも、まったく同様のことである。
 長岡でこのように同時多発的に、同じ主張がなされる機会があったということは、実は凄いことなんじゃないだろうか? これらを経験した一般市民の誰かから、身近な街への働きかけの、何か新たな動きが発生したとしても、まったく不思議ではない。


 そして私個人にとっては、今回荒俣さんによって 「すべての街の装飾には、呪術的・精神的な意味がある」 という視座を与えてもらった。いったんそのように街を捉えると、一気にチャンネルが拡がったような見え方になるではないか…!
 

Thursday, November 27, 2008

東京記

11月22日(土)
日帰り東京訪問記


■ギャラリー間 『安藤忠雄 建築展』
(ネタばらしあり注意)

 展示の目玉は原寸大で再現された 「住吉の長屋」。既存のギャラリー空間をたくみに使って構成されていた。
 私は東京行きの電車の中で平面図を描き写して予習し、会場に入場して、さっそく長屋の内部に入ってみた。実物の建築のコンクリート打放し部分は、展示ではほとんどが型枠ベニヤに置き換えられて再現されていた。(床は既存ギャラリーの石張りのまま、中庭の階段部分は実際にコンクリート打設+踏み板に玄昌石)
 しかし、そもそも型枠ベニヤには素材のちからがあること、セパ穴・目地・建築化照明などが忠実に再現されていること、建具に本物のスチールサッシを使っていること、といった理由で、安藤建築の特徴である 「素材の数が絞られた、緊張感に満ちた空間の質」 が、まったくゆるぎ無く再現されていた。
(後日訂正:展覧会に再訪して見直したところ、建具は、木建具+EPの「なんちゃってスチールサッシ」でした。)


 本物の 「住吉の長屋」 の内部に入れる機会は、まず無い。しかし、空間の質・スケールともに忠実に再現された展示の内部空間に身を置くことで、この住宅をかなり正確に 「体験できた」 ような気がする。それにより、いろいろと考えることができた。
 安藤さんがこの住宅を説明するときに、「この中庭は、住宅に自然を取り込む装置である」 という言葉をよく使われている。私はそれを 「中庭イコール自然」 なのかと思っていた。しかし実際に中に入ってみると、中庭によってたしかに通風と採光が居室に確保されていたが、中庭は私の考えていたように自然そのものではなく、まさに自然を取り込む 「装置」 であった。その点を私は誤解していたようだ。


 特に印象的なのは、中庭を囲んでいる2層分の壁の存在だった。壁により天空が切り取られた中庭は、ジェームズ・タレルのアートワークを彷彿とさせたし、なにより 「安藤」 を強く感じさせるものだった。私は中庭はもっと 「自然な存在」 かと予想していたが、要するに、住環境としてはたいへん独特なのだ。
 私が建築を学んできた過程で、「住吉の長屋」 というのは半ばイコン化した存在だった。しかし実は、この住宅はたいへんな特殊解であるということが、今さらながら理解できた。図面や本からの解釈は狭く、体験すればまっとうに認識できる。


 あらためて安藤さんの設計趣旨文と実際の空間とを比べてみると、「きわめて単純な構成と最小限の要素による、複雑多様な空間体験」 「閉ざされた箱の中に、自然を抽象し取り込む装置を組み入れる」 といった設計の意図が、この住宅において、まさにこれ以上ない純度で実現していることが体験できた。
 それにしてもこの住宅は変わっている。中庭の存在が、内部の完結を決定付けている。中庭は自然を取り入れるが、中庭自体は自然からは完全に変容していて、他に類を見ない独特の存在で、どちらかと言うと私には 「不自然さ」 を感じるほどのものだった。だって自然の開放感を味わいたかったら、おもての路地に出た方がいいもんね。


 この住宅はきわめて単純なだけに、考えも尽きない。大阪の密集した木造長屋群の一角に、このように完結した一戸の特殊な住環境を出現させたことに、あらためて驚きをおぼえる。しかし、この住宅の空間の骨格である寸法・スケールは、設計者がゼロから設定したのではなく、「長屋の一戸の建替え」 という与条件が決定したものである。設計者はその与件に誠実に対応したと言える。
 「住吉の長屋」 は、長屋の建替えという前提のもと、コンクリート打放しという工法と表現、(詳しくはわからないが)施主からの要望といった諸条件を、ひとつひとつクリアしていった結果が、あのような緊張感と完成度の住宅に到達したことがわかった。条件をクリアしていくことの積み重ねは、他のどんな住宅においても同じことであるが、「住吉」 の場合は、到達点の高みというか、そのバランスの危うさというか、それこそがこの住宅が語り継がれる存在である所以なのかな、と思った。
 そして、今回私がギャラリーに来る前に、眺めるために何度目かの訪問をした、西沢(立)さんの某住宅を目の当たりにしたときも、諸条件の解決のバランスという点において、まったく同様の感想を持った。
 安藤展は12月20日までやっているので、できることならもう一度訪れたいと思う。





■21_21 DESIGN SIGHT 吉岡徳仁ディレクション 『セカンド・ネイチャー』 展
(ネタばらしあり注意)

 吉岡徳仁のインスタレーションは、とにかく息を呑むくらい圧倒的に美しかった。新作のイスは、結晶作用のハプニング的造形によるもので、この作品の展示もたいへん美しかった。だが 「この手法を展開させるのが、なぜイスでなければいけないのか? なぜヴィーナス像で、なぜシューベルトの曲でなければ?」 という疑問も非常に強く感じた。結晶作用はとても興味深い手法なので、既存の価値と結びついた展開にとどまっているのはもったいない気がした。ただ私が見るに、吉岡さんはずっと予想もつかない進化を続けてきた人なので、今後これがどのように展開していくのか目が放せないと思った。


 吉岡さんの 「CLOUDS」 というインスタレーションは、すごくローテクノロジーだが、作品の美しさは尋常ではなかった。作品に用いられるテクノロジーとその結果との関係は、私が先日の長岡シンポをきっかけに知った中谷礼仁さんもおっしゃっているが、一考に価する観点だと思う。要するに、往々にしてローテクノロジーの方が精神性を込められる、ということだ。
 そのことは 『セカンド・ネイチャー』 での、ロス・ラブグローブの作品を見たときに、逆の意味で考えさせられた。作品は骨の造形原理を再解釈し、それをレーザー光造形の手法で作品にかたちづくるというものだった。私が見たところ、まだ光造形というハイテクノロジーを 「扱うことが目的」 という段階で、作品としてはあまり興味を引かれるものではなかった。私は手元に骨格標本を置いて、いじって眺めているので知っているが、本物の骨の魅力には遠く及んでいない気がした。と言って、光造形という手法に批評性を持って取り組んでいるというわけでもなかった。製作過程を紹介するムービーを見ると、作品の形成段階でどうしてもできるモールド(プラモデルの「バリ」状のもの)を、あとからきれいに取り除いていたが、でもそれは付けっぱなしのほうが、光造形技術への批評性があってずっと面白いのにな、と思った。
 しかし何にせよ光造形は発展途上の技術なので、このさき進歩したら、同じ考えで作られた作品も、より面白いものになるのかもしれない。


 手段と結果のバランスが絶妙にうまくいっている作品を見つけるのは、案外むつかしい。その意味で私が 『セカンド・ネイチャー』 で面白かったのは、21_21のロビーのパソコンでの、岡田栄造さんによる展覧会趣旨の宣言文だった。毛筆調のモーションタイポグラフィで、岡田さんの宣言文がディスプレイ上に次々と生成されていた。これは私にとっては、手段のテクノロジーの具合と、言っている内容と、そのバランスがとても面白かった。(若干テキストが長かったけど)
 21_21では、「住吉の長屋」 とは別の安藤忠雄さんの空間も体験できたし、上に書いてきたような、建築設計にも通じる 「テクノロジーと結果との関係」 について、作品を通していろいろと考えることができたので、とても楽しかった。





■ 旧山田守邸・蔦珈琲店

 石本喜久治からの 「分離派つながり」 で、山田守の自邸が、現在は喫茶店として営業しているということなので、行ってみた。





 私は山田守についてはほとんど何も知らず、聖橋や新潟市の万代橋の設計者であるという知識ぐらいしか持ち合わせていなかったが、とにかく行ってみた。
 喫茶店に入りカウンターに座って食事を注文した。「がんばった感」 とか 「ローテクノロジーと精神性」 とか、建物環境からそういったことを感じ取れたらと意識したが、初めて訪問したかぎりではよくわからなかった。だが、旧長岡市庁舎や長岡市厚生会館に通じる建物の雰囲気は感じ取ることができた。


 店には山田守の作品集が置いてあり、私はそれを読んで、この喫茶店はピロティ部分への増築であることを知った。作品集によって、この自邸は1959年に建てられたこと、山田さんが65歳になるまで自邸を建てる機会を躊躇していたこと、「不燃化立体化と美しい環境を造ることに協力する様な家を造って置けば、将来も何かに利用されるであろう」 という考えのもとに建てたことがわかった。その住宅が時を経てこうして喫茶店に姿を変え、そこに入って食事をしていると、先ほどの山田さんの考えに、大いなる説得力を感じることができた。


 余談だが、ここで注文したカレーセットが、この日初めてのちゃんとした食事だったので、たいへん身に沁みた。
 

Wednesday, November 05, 2008

中込学校

 じゃあ見てみようか、というわけで、中込学校に行ってみました。
 実際に訪れた感想は、うーんこれを旧長岡市庁舎と関連付けてしまう眼力とは・・・やはり歴史家とは怖ろしい人種だなあ、と思いました。
 しかしそのように言われてみれば、なるほどその通りで、塔+バルコニーという構成は共通しているし、中込学校の外観は簡素ですが、地方において、特別な材料ではないが、ちゃんとした建築材料を使って真面目に建てられた、先日の用語で言うと 『がんばった感』 を強く感じるものでした。
 もっとも現在の中込学校の姿は、昭和40年代の解体調査・復元修理により、やりかえられたものだそうです。しかし真面目な仕事であることに変わりはない。




 旧長岡市庁舎との類似からは離れますが、中込学校の内部空間はとても刺激的で、私にとっては、わざわざ訪れた価値が十二分にありました。1階は、日本初のオープンスクール?(←深読みか?)のプランニングで、2室が建具なしで通路を挟んでつながっています。垂れ壁下の開口部の高さをあたると1間で、その寸法による部屋どうしの関係が微妙でおもしろい。子供の目線だとまた違うと思う。つながっているので、打瀬小などと同じく 「音」 が問題になるであろう。
 また、しっくい真壁の潔さとプロポーションがとても美しい。良い壁でした。



 こんな劇的な光のドラマもあります。この夢のような空間は、実に立ち去りがたかった。
 

Sunday, November 02, 2008

使われていました

厚生会館中ホール
木曜日 20時40分
シンポジウムの会場だった場所で、社交ダンスをしていました。


旧市庁舎(中央公民館)
木曜日 21時20分
吹奏楽の練習をしている音が聞こえています。
 

Thursday, October 30, 2008

総括 『長岡の近代建築を考える』

旧長岡市庁舎
長岡市厚生会館

 10月26日、旧長岡市庁舎・厚生会館の、建築見学会とシンポジウムは、予想を超える盛況のなか、無事に執り行われました。参加していただいた皆様、ご協力・ご尽力いただいた皆様、まことにありがとうございました。



 当日の朝から始まった設営準備では、私はとにかく自分の割り当てを全うすることにちからを注ぎました。関係者すべてがそのように考え、自分の責任を果たすことで、短い準備期間・設営時間のなか、どうにかお客様をお迎えできるだけの準備を整えられたかと思います。



 建築見学会は、柳原の旧市庁舎に集合し、かんたんなレクチャーの後、庁舎の建物を、7階の展望塔から外観までひととおり見学しました。その後、徒歩にて厚生会館まで移動し、大ホール・アリーナを中心に見学しました。アリーナの天井点検口のタラップから、3名ずつくらい屋根裏に上ってキャットウォークに立っていただき、投光器で鉄骨トラス小屋組みを照らし、見学していただきました。
 (私は運営にいそがしく、見学会の写真は撮っていません。)


 約40名の参加者の皆様は、建物の見学や移動でたくさん歩いて、かなりお疲れになったかと思いますが、熱心に興味深く見学していただけたようで、たいへん良かったです。ありがとうございました。当日の天気予報はかんばしくなく、大雨の予想もあったのですが、幸いにも見学時や移動時は曇り空のまま持ち、雨が落ちることはなく、胸をなで下ろしました。




 シンポジウムの第1部として、厚生会館の中ホールを会場に、石本建築事務所相談役の古畠誠一氏により、基調講演 「建築家・石本喜久治」 が行われました。


 古畠氏には、石本喜久治の卒業設計から、竹中工務店において東京朝日新聞社屋を設計し、そして片岡安氏の庇護協力のもと独立し、白木屋百貨店をはじめ数々の作品を設計した生涯を、スライドとともにご紹介いただきました。
 旧長岡市庁舎・厚生会館に対する石本喜久治の取り組みも紹介され、特に厚生会館は、冬季も使える運動場機能や公演のための音響設備など、市からの要求プログラムが多岐に渡ったが、それらをすべて満たした末の設計であったことが述べられました。


 石本喜久治の人となりについても、限られた時間のなか断片的ながらお話しいただき、私はそれをとても面白く感じました。「入所希望者のバランス感覚を推し量るために、試験として1本の線香を等分に折ることを命じた」 とか、「やっと描き上げたトレペの図面にもどんどん鉛筆や赤鉛筆を入れるので、閉口する所員もいた」 とか。(こういうのはどこの事務所でも多少はあることですね。)
 所員に対しては厳しい人だったが、反面ふだんはモダンな伊達男で、女性からは一目置かれていたということ。また、設計事務所を近代的な組織として成立させることにかなり腐心し、石本が亡くなったときに弔辞を読んだ村野藤吾は、その組織確立の手腕と業績を称えたそうです。私は石本と村野に深い交流があったことを、古畠さんのお話で初めて知りました。




 会場には、石本事務所と建都会が作成した資料パネルをディスプレイし、休憩時間などに皆さんに自由に見ていただきました。このパネルに使う資料の選定のため、石本事務所にて当時の図面などを見た平山育男・長岡造形大教授は、それらのすぐれた史料的価値に感激されたそうです。




 第2部として、パネルディスカッションが行われました。コーディネーターは平山先生、パネリストは、永原昌平氏(石本事務所顧問)、中谷礼仁氏(早大准教授)、五十嵐太郎氏(東北大准教授)の3名。



 以下は、私なりのまとめです。



平山 「各建物を見た感想はどうか」



永原 「私は新潟市の出身だが、長岡は文化が豊かだというイメージを持っていた。旧市庁舎はシンプル。高い塔は物見台として役立ったのではないか。厚生会館は市庁舎での経験を生かし、積雪対策の足元の処理などに、より進歩を感じる」



中谷 「どちらも懐かしさを感じる建物。と言っても既視感という意味ではなく、もっと根源的・本質的に懐かしい。
市庁舎は明治の擬洋風建築を連想させる。とくに佐久の中込学校に通じる清廉潔白さがある。厚生会館は、伝統論争が盛んだった時代背景とともに、『民家』 『大きな屋根』 というデザインソースを感じさせる。コルビュジェのソヴィエトパレス計画案のアーチの影響もあるかもしれない」



平山 「擬洋風との関連についてもう少し」



中谷 「地域の技術者(大工)が西洋建築を観察し、それを咀嚼吸収して木造で表現したのが擬洋風建築だが、それと同じような姿勢を感じる。アプローチの正面に塔を設け、あわせてバルコニーを設けるという特徴も、共通している」



五十嵐 「石本喜久治の作品をちゃんと見たのは初めて。いま 『窓学』 というものをやっているので、丸窓の名手の石本は興味深い。
市庁舎は石本の建築の特徴であり、また地方において求められることの多い 『塔』 が採用されている。そうすると権威的になりがちだが、平面をカーブさせたり屋根階のデザインを変化させるなど、対称性を上手に崩し、親しみやすい建築にしている。
厚生会館は、おむすびみたいな形でかわいい。アーチが印象的だが、正面から少しセットバックさせて威圧感を軽減している。その正面と、力強い列柱に支えられた側面では印象がかなり違う。正面にごく小さなバルコニーがあるのも、カワイイ」



平山 「塔や尖った形は、卒業設計以来の石本の大事なモチーフだったのではないかと思う。
さて、旧市庁舎は昭和30年・厚生会館は昭和33年の竣工だが、昭和20年代~30年代(1950年代)の建築について、どう思うか」



永原 「RC(鉄筋コンクリート)の技術が高度に発展していった時代だと思う。
厚生会館のRC打放しも、当時のもののはずだが、重大な損傷も無くきれいに保たれている」



中谷 「歴史を超えてきた建築にはふたつの共通点がある。ひとつは建築として普遍性があること。もうひとつは愛されていること。
RC造はコンクリートを型枠に流し込むだけなので、評価としては実はむつかしい技術ではなく、木造や鉄骨造のほうが高度である。RC造が大工の高度な木造技術により独自に発展したのが、日本の特徴。
20~30年代の建築は、技術的には現在のものより高くはないかもしれないが、力強さを感じる。それは、建設に込められた人々の思いが力強いからである」



五十嵐 「先日までコミッショナーとしてヴェネチア建築ビエンナーレに参加していたが、会場の 『日本館』 は、吉阪隆正の設計により1950年代に建てられた。当時の日本の国力からすれば異例の快挙であるが、ブリジストンの資金援助もあり実現した。石本が設計にかかわった広島市民球場も、広島市民からの募金が建設資金となった。
20~30年代には、人々はそうやって建築に思いを込めてきたが、現代ではそのような思いは失われたのかもしれない。
昨今、東京タワーが映画の影響などで再評価されているが、同時代の他の建築はあまり注目されず、東京タワーがひとり勝ち組の状態である。そうした現象も起こっている」



平山 「旧市庁舎も厚生会館も、シンプルであるが、そのぶん建てた人々の 『がんばった感』 がひしひしと感じられる建築である。
では、現存している20~30年代の建築は、どう扱っていくべきだと思うか」



中谷 「人々の思いの変化とともに、建築の扱いも変化する。旧日本政府によりソウルに建てられた朝鮮総督府庁舎は、第二次大戦後もアメリカ軍や韓国政府の施設として、また博物館として利用され続けてきた。しかし残すべきか残さざるべきかの激しい議論の末、取り壊されることになった」



五十嵐 「大阪・船場で行われた建築シンポジウムでは、以下のようなことが話題になった。
20~30年代の建築は、わかりやすいモチーフの装飾などが多く、一般の人々が親しみ易い面があり、壊されず残って使用されているケースも多い。ところが、それに続く50~60年代の建築は、目だつ装飾も無くどこに注目すべきか取っかかりが持ちづらいところがあり、その結果どんどん壊されて数が減っているという。(中島直人氏は、それを 『続近代建築』 の危機 と、面白い表現をしていた。)
建築にどう注目し、愛着を育てていくかが重要なポイントである」



平山 「永原さんが設計した建築作品にも、壊されるものが出てきているのではないか?」



永原 「それについては悲しく感じる。
しかし建築は多様な価値基準のもとに存在する。文化的価値に加え、不動産としての価値、街並みを形成する価値、コミュニティに貢献する価値・・・
それらの価値が時代とともにズレてしまったとしたら、その建築が無くなってしまうのも、いたしかたないのかもしれない。」



中谷 「50~60年代の建築が減ってきていると言っても、現存する明治の建築に比べれば、圧倒的に数が多い。だからと言って、気安く壊していいという訳ではないが。
私は、90年前にある人が訪れて本にまとめた全国の民家を、再訪・調査する活動をしている。(ブログ筆者注:ある人とは今和次郎のことと思われる) 対象となる約60軒の民家のうち、すでに約40軒の場所を特定して訪れた。すると驚くべきことに、そのうちなんと7割が今も現存し、使われていた。
共通していたのは、そこに住む人々が、『古い貴重な建物を扱う』 という意識などは全然無く、『日常的に、ごく普通に』 民家を使っていたことである。
自覚を持つことより、理屈抜きで普通に使いこなすことの方が重要なのかもしれない。文化財とみなされて保存運動が起きたりする段階は、実は末期的とも言える。ちょっと引いた視点が必要。保存運動ではなくその手前の、普通の状態が良い。
旧長岡市庁舎も厚生会館も、今日も市民が普通に利用している光景をたくさん見ることができ、好感を持った。『これをなぜ壊す必要があるのか・・・』 という気もする」



五十嵐 「たとえ廃墟になったとしても、残ってほしい建築というものがある。そういったものは廃墟のままであっても、ある時代に突然よみがえって建築として再び使われることがある。パリのオルセー駅舎は、その役目を終えた後も解体されることなく、ずっとそのまま放っておかれていた。それがあるとき素晴らしい美術館としてよみがえり、世界中の人を集めている。
使われなくなっても、すぐに壊してしまわずそのままにしておくという選択肢もある。しかし日本の社会の仕組みとして、壊すことを前提にすると予算がつく、というところがある。
宮崎県の都城市民会館は、菊竹清訓が設計した力強い傑作建築だったが、解体の話が持ち上がっていた。保存運動も盛んに行われたが、結局、取り壊されることが決定した。ところが、都城にキャンパスを移転する大学が、市民会館を大学の施設として利用したいと申し出て、一転して市民会館は存続利用されることになった。こういうケースもある」



中谷 「『解体しやすく作られた建築』 というのは、実は 『修理しやすい建築』 でもあり、結果として長く残る建築になる。『解体しにくいように、長持ちさせようと』 作った建築のほうが、こまめな修理がしにくく、すぐに解体せざるを得なくなる、ということが起こりうる。
木造では、柱寸法が4寸角のものは、他の部材を接合したり転用したりという余裕(=冗長性)があるので、建物は長く利用される。しかし柱を3寸5分という寸法で建てると、経済的かもしれないが、そういった 『冗長性』 や 『遊び』 に欠けるので、早くに壊されてしまう。
20~30年代の建築は、もしかしたらそうした冗長性に欠けるきらいがあるのかもしれない。建築を設計するときに、経済性や効率のみを重視してギリギリの設計をするのではなく、少し余裕を持たせた設計をしても良いのではないか」



永原 「話としてはわかるが、それは現実の世の中では、なかなかむつかしいことだと思う」


(終演時間が近づく)


平山 「それでは最後に感想を」



永原 「今日、旧市庁舎と厚生会館を訪れてみて、竣工当時から今日まで市民にずっと利用されているのを知り、驚きと感謝の気持ちを持った。厚生会館はこれから取り壊されるが、この建物は長岡の文化に充分貢献したのではないかと思う」



中谷 「今日のような、建築の 『とむらいの会』 に呼ばれることがあるが、正直なところ、あまり出席したくはない。私も東京で地道な活動をしているので、長岡の人もぜひがんばってね!と言いたい」



五十嵐 「厚生会館のあとに続く建物を、ぜひがんばって良い建築にしていただきたい」



平山 「石本事務所にて旧市庁舎の図面を見たとき、1階に診療施設が、地下にレントゲン撮影設備があったことを知り、非常に驚いた。役所にそのような施設が併設されているのはたいへん異例である。
旧市庁舎は平面計画は一見シンプルだが、そういった市民への配慮や、建物をカーブさせるなど、親しみやすい建築を実現している。厚生会館にもその理念は生きている。今日はそのようなことを、われわれにも市民の皆さんにも知らしめる機会になったと思う」


(以上まとめ・終わり
問題がある場合は workability1970@yahoo.co.jp 野田英世 までご指摘ください。)



 最後は若干しめっぽい雰囲気で終わりましたが・・・
 私が一番印象に残ったのは、「保存運動の手前の、普通に利用していることが良い」 ということ。現在の旧市庁舎・厚生会館の姿は、まさにそれです。旧市庁舎の一角は中央公民館として開放され、また併設の自然博物館は無料で観覧することができます。厚生会館は現在、「市展」 の会場として、市民の芸術作品を展示する準備が進んでいるはずです。長岡市民は今日も、このふたつの建物を使いたおしています。


 ここで思い出すのが、先の9月26日に、新しいシティホールの設計者である隈研吾氏を長岡に招いて行われたシンポジウムとパネルディスカッションのことです。ブログには書いていませんでしたが、私はこれに参加していました。
 その席で、森民夫・長岡市長が現在の市民センターについて述べていました。現市民センターは、大手通にある閉店したデパートの建物をそのまま使い、市役所やハローワークの分室、国際交流センター、花火ミュージアムなどを入れ込んだ施設です。デパートの建物をそのまま利用したのもすごいですが、森市長は、その中の高校生のための自習コーナーが、自然発生的に生まれ、それが管理面などきちんとした施設コーナーへと定着していったというエピソードを紹介していました。森市長はパネルディスカッションを、「建物は竣工して終わりではなく使ってこそ価値がある。市民の皆さんには新しいシティホールをぜひ使いこなして欲しい。」 と結んでいました。


 私が思うに、そういった普通に建物を使っていく 「才能」 や 「遺伝子」 が、長岡の人には割とあるような気がします。確かな根拠はありませんが、そう捉えてみたときに、なんとなく腑に落ちる感じが私にはあります。今回のシンポジウムでは、そのことに気付くことができたのが、私としては最大の収穫だったように思います。
 そして、厚生会館はいずれなくなってしまいますが、そのときに私が感じるであろう喪失感や淋しさ・悲しさは、シンポジウムを経験する前より、確実に深いものになってしまっただろう、と思います。


 パネルディスカッションは、気鋭の学者と練達の実務者というパネリストのバランスにより、たいへん興味深いものになりました。また私は、第一線の建築史家の(それも複数の!)お話を初めて聞きましたが、一流の学者のアトラクティブネスと、知の底力のようなものを、強く感じました。私は今までは、建築アカデミズムの周辺をうろうろし続けるだけで今日まで来ましたが、「きちんと蓄積されてきた知の威力」 を痛感させられたような気がします。




 終了後、関係者により、打ち上げと懇親会が行われ、私は会場撤収後に合流しました。
 その席で私は、古畠誠一さんと長い時間お話することができました。本編の基調講演では出てこなかった石本喜久治のエピソードを、堅い話からやわらかい話まで、たくさんお聞きしました。そして、古畠さんご本人が一途に建築に打ち込まれてきたお話も、お聞きすることができました。
 エネルギッシュにお話される古畠さんの姿を私は忘れられないとともに、建築家・石本喜久治という人物にも思いを馳せずにはいられません。


 ともあれ、今回の企画は、今後の私の建築人生に、相当大きな影響を与えそうなものになりました。かさねがさね、ありがとうございました。


(遠大なエントリーになってしまいました・・・すみません。)
 

Saturday, October 25, 2008

今日の・・・

今日の旧長岡市役所


今日の厚生会館


『長岡の近代建築を考える』いよいよ明日26日に開催されます。
シンポジウムは、当日申し込み枠も設ける予定です。まだご予定のお決まりでない方、少し興味が沸いた方、どうぞお気軽にご参加ください。各講師のみなさんの面白いお話が聞けそうです。

Friday, October 24, 2008

いよいよ、あさってです。

 『長岡の近代建築を考える』 シンポジウムが、いよいよあさって日曜日に迫ってまいりました。

 長岡市内の方のみならず、遠く東京や福島の方々にも興味を持っていただき、参加のお申し込みをいただいております。

 おかげ様で、見学会のほうは、募集の定員に達しました。シンポジウムは、まだ定員まで余裕があるようです。皆様のご参加をお待ちしております。

Sunday, October 12, 2008

シンポジウム 『長岡の近代建築を考える』

「建築と都市を考える会」 が主催する、企画のご案内をいたします。

来る10月26日(日)、長岡市に現存するふたつの近代建築に関する、建築見学会とシンポジウムが行われます。



『長岡の近代建築を考える
  - 旧長岡市庁舎・厚生会館 そして石本喜久治を通して』



概要
 1958年に建設され、長年地域のシンボルとして活躍してきた長岡市厚生会館が、新たなシティホール(隈研吾氏設計)の建設に向けて、来年取り壊されます。
 この厚生会館と、1955年に建設された旧長岡市庁舎(現・中央公民館)は、共に、日本近代建築の先駆者、建築家・石本喜久治(1894-1963)により設計されました。しかしこのことは、現在、あまり知られていません。

 石本喜久治は、広島市民球場の設計者としても知られ、若くして 「分離派」 と呼ばれる建築運動を起こした後、現在まで続く 「石本建築事務所」 を興すなど、日本の建築史にさん然と名を残す人物です。その建築家の作品が、長岡にふたつも現存しているということは、正直、驚きに耐えません。

 そこで今回は、石本喜久治本人にゆかりが深く、建設当時のことにもお詳しいであろう、古畠誠一氏(石本建築事務所相談役)をお招きし、あわせて、当代建築界きっての建築史家・論客である、中谷礼仁氏(早大准教授)と五十嵐太郎氏(東北大准教授)をお迎えして、長岡の近代建築と石本喜久治について考え、ひいては身近な建築や街のことを考える機会を持とうと思います。コーディネーターは、平山育男氏(長岡造形大教授)に務めていただきます。


↑クリックで拡大します



2008年10月26日(日) 12:30-17:30



● 建築見学会 12:30-14:25
 旧市役所と厚生会館を見学し、建物の魅力を再発見します。
 日頃見ることのできない、旧議場や、厚生会館の鉄骨小屋組みトラスなども見学できる予定です。
 旧市役所(中央公民館)401室に、12:30集合・見学開始です。


● シンポジウム 厚生会館・中ホールにて
 基調講演 14:45-15:40 古畠誠一氏
 パネルディスカッション 16:00-17:30
   古畠誠一氏・中谷礼仁氏・五十嵐太郎氏・平山育男氏


● パネル展示 12:30-17:30 厚生会館・中ホール
 当時の竣工図面など、貴重な資料の数々を展示します。


● パネル展示は、どなた様も無料でご自由にご覧いただけます。
 建築見学会、シンポジウムの参加は無料ですが、事前の参加申し込みが必要です。参加定員は先着順で、見学会が40名、シンポジウムが100名です。
 お申し込みは、住所・氏名・電話番号を明記のうえ、以下までお願いします。

 [e-mail] archi-s@nct9.ne.jp
 [FAX] 0258-34-4777
 [ハガキ] 〒940-0827 新潟県長岡市悠久町 1-9527-2 アーキセッション宛

 お電話いただいても大丈夫だと思います。
 0258-34-4774(アーキセッション) または 0258-22-3684(和田正則・建築環境計画)まで。

 あるいは私宛にご連絡くださっても結構です。
 当ブログの右側の 「野田英世」 のプロフィール欄から、メールを送ってください。


● 個人的には、厚生会館が取り壊されると、かなり寂しい感情を覚えるのではないかと、今から予想しています。
 今回の企画は、公共建築について、まちづくりについて、地方都市について、消え行く建築と新しく建つ建築について、考えみる良いきっかけになると思います。
 また長岡で古畠誠一さんはじめ、中谷礼仁さん・五十嵐太郎さんのお話を聞くことのできる絶好の機会です。多くの方々のご参加をお待ちしています。

Saturday, September 06, 2008

長岡中心市街地の雁木

 現地に再度行ってみたところ、境界標識や各種埋設標を見つけることができた。
 敷地境界は、どうやら c の位置のようだ。




Friday, September 05, 2008

長岡中心市街地の雁木

 事務所の別の先輩の話 「敷地境界は b の位置らろー。民地を提供するのが雁木ってもんらいやー。」


 b-c 間の表面仕上げは a-b 間の歩道に準じており、また誘導ブロックが b-c 間 に貫入している。現地に再訪できていないので石標等確認できておらず、ウラが取れていないが、敷地境界が b である場合、民有地と公有地が同じタイミングで舗道整備されたということだ。歩行者の動線としてはあくまで b-c 間(雁木の下)が想定され、(それは正しい想定である) 誘導ブロックはその判断のまま民有地に敷設された、ということになる。

Saturday, August 30, 2008

長岡中心市街地の雁木

 今日も昨日と同じ道を通って出勤した。

 意識して歩くと、中心市街地において、雁木と歩道の関係が錯綜していることに気がついた。写真は昨日のログで書いた、折板の雁木が作られたビルの場所。歩道と車道との境界は a で、ふつうでいくと敷地境界は c の近辺だが、雁木は b の位置まで作られている。雁木は歩道すべてを覆っているわけではない。いまさらながら気がついた。
 折板の雁木を慣例どおりに新設しても、車道(=除雪インフラ)とピロティ駐車場が直結されるわけではない、ということだ。


 市街地の雁木の位置は、同様になっているところが多い。なぜ現況で歩道と雁木の関係がこのようになっているか、その経緯を事務所の先輩に聞いてみたが、よくわからなかった。(ご存知の方はぜひ教えてください。)現地をさらに観察したら何かわかるかもしれない。都市計画的な謎解きも興味深いが、住宅が都市インフラとどのように関係を結んでいるか、考えるきっかけのモデルケースとして記録した。


 雁木にベンチが置いてある例

Friday, August 29, 2008

長岡中心市街地の雁木


 前回ログで 「長岡の雁木はたぶん減ってきているだろう」 と書いたが、出勤途中に中心市街地を歩いているとき、ちょっと意識すると、まだまだ長岡に雁木はたくさん残っているのに気が付いた。
 樋や電気配線を隠すため屋根が太ったり、看板や何やらで、すっきりしたデザインとは言えないが…



 新しくビルを建てる際にも、折板で雁木を作り、連続させている。これはビル使用者にとっての、ピロティ駐車場の車の出し入れの、冬期の利便性をねらったものであろう。(車道には消雪パイプや除雪車などの行政によるインフラが存在するが、歩道の除雪は基本的に各戸にまかされている)
 また、飲食店のカーポート屋根を延長させ、位置と高さを雁木に合わせて作っている。(客と町並み両方への気配り?)


 横の路地には雁木は作られていない。当たり前か…


 隅切り部の連続


 各戸で柱に色を塗ったり、いろいろ工夫している。



 雁木と住宅の取り合いの例 土間(駐車場)、作業場(店舗・座敷)
 ふむふむ、なるほど…

Tuesday, August 26, 2008

旧・井波町

 最近よく思うのは、(長岡の)雁木って、つくづく優れている。(数が減っているだろうから 「優れていた」、かな) 風土に根ざした共同体の哲学があり、それがちゃんと形態の次元まで落とし込まれている。連続する雁木を見れば、その奥の哲学まで透かして見ることができる。


 それはそうとして、ちょっと思うところがあり、「『美しい町並みは、なぜ美しいのか』 ということを把握したいなー」 と思うようになった。そのために、少し意識して町並みを見てみようと思った。
 しばらく前のNHK総合TVの昼の番組で、富山県南砺市(旧・井波町)のことを放送していて、それを見ていた私は、その町並みに 「おっ」 と感じたことを思い出した。南砺市に行ったことは無いが、他の富山の町には何度か行ったことがあり、町並みが良かった記憶もあった。そこで今回は、井波の町を訪ねてみることにした。高岡市にもちょっと寄った。

↓井波の町





 私にとって、町並みを見るのは建築単体を見るよりむつかしいかもしれない。まだ慣れていないせいであろう。今までにも色んな町並みを見てはいるが、意識の蓄積としてはまだあまり無いんだろう。
 テレビで見た井波の町のどこに 「おっ」 と思ったかというと、テレビカメラが高いところから町並みを見下ろしたとき、低層の瓦屋根の町並みの端ッコに、たいへん巨大な 「瑞泉寺」 があるのが見えていて、巨大な宗教施設を中心とした明快な町の構成が、ちょっと日本離れしていて、どちらかというとヨーロッパっぽいものを感じたのだ。
 今回実際に町を訪れてみて、高いところから町並みを見下ろせる場所に行きたかったが、見つけることができず、町の構造を一望することはできなかった。人間の目線の高さだけで井波の町を歩いて見たときに、「ちょっと日本離れしている」 と感じるかどうかは、わからない。
 井波の町は美しいのか? 美しいと思う。では、なぜ美しいのか? 正直それはまだ説明できない。
 美しい町はなぜ美しいのか? まだわからないが、みんなが同じ事をやっている町並みは美しいと思う。それは間違いない方法であることは間違いない…
 私が目指したいのは、理念や哲学が体現された建築だ。言行を一致させるのはたいへんむつかしい。自分の将来を探る意味でも、そういったもろもろのことを考えるヒントが 「美しい町並み」 にあるんじゃないかという気がしているのだ。


 …まあそれはそうとして、井波はすごく穏やかで、観光客もたいして多くなく、特に、自家用車ではなく路線バスで訪れて町を歩き回ったりしたので、私はすごくのんびりできた。井波は木彫刻の町なので、道に面した作業場で職人さんたちが作業しているところが見られた。木の香りが通りまであふれてきていた。木彫の技巧が注がれた瑞泉寺も良かった。のんびりすることを目的にしても、また訪れてもいいな。「福光屋」 という食堂があり、どじょうの蒲焼が名物だそうで、私はどじょうの蒲焼丼と吸い物を注文した。どじょうのクセがあるが、上手に料理してあって、おいしかった。食べ終わってあらためてメニューを見たら、うなぎの蒲焼丼がどじょうの丼とおんなじ値段だった。次はうなぎ丼にしてみようかな。


 高岡では 「瑞龍寺」 に行った。高岡の町並みを見る時間は無かった。
 私は瑞龍寺に来たのは2度目である。町並みとかはひとまず置いといて、ここは建築単体として、また環境単体として素晴らしい。境内に入ると俗世間と空気が違う。建築を目指す者として、心を洗われて帰ってきた。