別ブログもやっております! 50年間の役目を終えた「長岡市厚生会館」! その静かなる有終の日々…
「MOANIN' 長岡市厚生会館」

Sunday, June 07, 2009

野田英世・ミーツ・野口英世




お おぢさま~!(嘘)

Thursday, April 23, 2009

長岡市厚生会館・解体現場の見学

 ご厚意により、厚生会館の解体現場を見学する機会をもうけていただいた。
 他の写真は、別ブログ「MOANIN'」のほうで…。

Sunday, February 22, 2009

京都タワー・通天閣

2月14日・15日
 京都・大阪に行ったあと東京に行って、さいごに南魚沼の雪祭りに寄って帰ってきた。大散財のチョー駆け足だったが、いま私にとって行っておくべき催しを網羅したので、いたしかたない。


 私はいままで京都市の町が、いまひとつ掴めていなかったので、今回はとにかく足を使って歩いてみた。京都駅から、最終的には左京区一乗寺ぐらいまで歩いた。おかげで、碁盤の目のような街区割りと、いままで「点」でしか訪ねていなかった建築たちの場所関係を、体で把握することができた。
 京都・大阪では、とにかくたくさん歩いた。一日のおわりにはへとへとになった。いつもは楽しいミナミの雑踏からも、逃げ出したく思えた。ひとばん眠って元気になってからまた、大好きな住吉区粉浜の町を歩いた。


 新潟を出て京都駅に着くと、山田守の京都タワーが迎えてくれた。初代ウルトラマンが似合いそうな、レトロ未来センスでかっこいい。「京都タワーがかっこいい」 なんて、日本の分離派を知るまでは、思ったことがなかった。時間の都合で登頂はできなかった。


 内藤多仲の通天閣も見た。(遠くから眺めただけ。)ここにもまだ登ったことが無いので、次回は…

Monday, January 26, 2009

東京タワー

 前回エントリの年表を作ってわかりましたが、東京タワーと長岡市厚生会館は、同い年なんですね。昨年が50周年。一方は残り一方は去る。

 「ひとり勝ち組」(by五十嵐太郎氏)の、東京タワーに行ってみることにしました。
 1月11日からの連休を利用して、「青春18きっぷ」 で東京に行ってきました。実は東京タワーに行くのは生まれて初めてでした。これが予想をはるかに超えて面白かった。



















 展望台までの、行きはエレベーターに乗りましたが、帰りは階段を使って降りてきました。これが大正解でした。建設当時の鳶職や、その後の塗装補修や照明改修など、人々の苦闘の舞台となった鉄骨の物体に、間近に触れることができました。時間帯もちょうど日が落ちるのに重なり、とても強く美しかったです。

 フットタウンビルでは、おしゃれスーベニールから昭和のかおりの土産物屋まで、ごったに存在していてとても面白かったです。 『東京タワー50年』 (鮫島敦/著) という本を買って旅の帰り路で読みましたが、感動的でした。
 また行きたい。
 

Thursday, January 22, 2009

昭和20年代・30年代の近代主義建築について

 先のシンポジウム 『長岡の近代建築を考える』 の、パネルディスカッションの内容をまとめて、ブログに載せましたが、当日のメモをもとにまとめた 「初期版」 と、動画記録をもとに正確にまとめた 「修正版」 では、以下のような違いがありました。


■西暦と元号を正しく把握していないところがありました。
 『長岡~』 のパネルディスカッションは 「昭和20年代・30年代」 の建築について議論していました。そしてその中で話題に上った、大阪・船場の建築シンポジウムは、同じ20・30でも、正しくは 「1920年代・30年代」 の建築を対象としていました。
 当日の話の中では、一律に 「20年代・30年代」 と表現されていた部分があったので、聞いていて混同するところがありました。
 年号どうしの関係について、私自身よくつかめていなかったところがあったので、整理してみました。

(↑クリックで大きなファイルが開きます)

 つまり、あらためて述べると、 『長岡~』 で話題になっていたのは、「昭和20年代・30年代=1950年代前後」 の建築 ということです。


■正しく記録を取って、あらためて私の印象に残ったのは、石本事務所顧問・永原昌平さんの発言内容でした。
 私は当日、永原さんの実務経験に則されたお話の印象が強かったのですが、それはやはり 「歴史家とは対照的である」 という、私の先入観からのものでした。
 内容を正しく拝聴してみると、永原さんのご発言のバックグラウンドには、相当に深い思慮があるように感じました。特に、「新しいシティホールは、『長岡城があった立地』 という、元々の土地の文脈を受け継ぐものである」 という視点は、慧眼であると思いました。


■大阪・船場に残っているという、1920年代・30年代のプレモダンな建物について、私が以前に大阪に行ったとき、該当するであろう建物を訪ねていましたので、写真を載せます。(2004年の夏に撮影)

 これは船場エリアからは少し離れた場所にありましたが、1920年代の建物をリノベーションしたものと思われます。(場所は、天神橋筋の一丁目あたりだったかと…)
 たしか、中にはギャラリーやショップが入っていました。スクラッチタイルやアーチが印象的でした。
 船場シンポジウムの対象だったのは、このような建物ではないか、と私は理解しています。



■最近の私の関心の対象となってきた、主な建物などを年表上にプロットしてみました。




■「近代建築」と表現されたもの、そしてその他いろいろのもの同士の関係を、まとめてみました。(まだ練れていない面がありますが…)

Wednesday, January 14, 2009

修正版・『長岡の近代建築を考える』パネルディスカッション内容まとめ


取り急ぎですが
当日の動画記録をもとにした修正版です。
・・・・・・・・・・・・


平山 「各建物を見た感想をうかがったうえで、3つのテーマで議論したい。
1、昭和20年代・30年代の建築の、一般的な意義について。
2、昭和20年代・30年代の建築が、今なお街中に存在し、使われ続けているということには、どういう意味があるか。
3、それらは今後どうなっていくか。どう扱っていくべきか。
ではまず、建物の感想を」



永原 「私は新潟市の出身だが、長岡は文化が豊かだというイメージを持っていた。旧市庁舎はシンプル。高い塔はランドマークとして役立ったのではないか。厚生会館は市庁舎での経験を生かし、積雪対策の足元の処理などに、より進歩を感じる。打放しのコンクリートも、建設当時のものがそのまま生きている箇所が随所に見られる」



中谷 「どちらも懐かしさを感じる建物。と言っても既視感という意味ではなく、もっと根源的・本質的に懐かしい。
市庁舎は明治の擬洋風建築を連想させる。とくに佐久の中込学校に通じる清廉潔白さがある。厚生会館は、伝統論争が盛んだった時代背景とともに、『民家』 『大きな屋根』 というデザインソースを感じさせる。コルビュジェのソヴィエトパレス計画案のアーチの影響もあるかもしれない」



平山 「擬洋風との関連についてもう少し」



中谷 「地域の技術者(大工)が西洋建築を観察し、それを咀嚼吸収して木造で表現したのが擬洋風建築だが、それと同じような姿勢を感じる。アプローチの正面に塔を設け、あわせてバルコニーを設けるという特徴も、共通している」



五十嵐 「石本喜久治の作品をちゃんと見たのは初めて。いま 『窓学』 というものをやっているので、丸窓の名手の石本は興味深い。
市庁舎は石本の建築の特徴であり、また地方において求められることの多い 『塔』 が採用されている。そうすると権威的になりがちだが、平面をカーブさせたり屋根階のデザインを変化させるなど、対称性を上手に崩し、親しみやすい建築にしている。
厚生会館は、おむすびみたいな形でかわいい。アーチが印象的だが、正面から少しセットバックさせて威圧感を軽減している。その正面と、力強い列柱に支えられた側面では印象がかなり違う。正面にごく小さなバルコニーがあるのも、カワイイ」



平山 「塔や尖った形は、卒業設計以来の石本の大事なモチーフだったのではないかと思う。
さて、1番目の議題として、旧市庁舎は昭和30年、厚生会館は昭和33年の竣工だが、昭和20年代・30年代の建築の一般的な意義について、どう思うか」



永原 「石本事務所にとってのその時代ということで言えば、戦後から復興するという時勢において、公共建築に大きなちからを注いでいった時代である。
建築一般で言えば、私が建築を学んだ時代でもあり、丹下・前川・坂倉・菊竹らが活躍し、建築表現のメインは、特に打放しコンクリートであった」



中谷 「歴史を超えてきた建築にはふたつの共通点がある。ひとつは建築として普遍性があること。もうひとつは愛されていること。
先ほど話した擬洋風と、昭和20年代・30年代の建築には、『時代の要請を満たす建物が緊急に求められた』 という共通点がある。
鉄筋コンクリート造には、そこにある石灰と土砂を捏ねて作ったような 『ものの作られかたの根源性』 がある。昭和20年代・30年代の打放しコンクリートには、その根源性がよく表れている。そういった、逆境を越えていくようなコンクリートの迫力は、昨今のきれいな打放しには無くなってきた」



五十嵐 「先日までコミッショナーとしてヴェネチア建築ビエンナーレに参加していたが、会場の 『日本館』 は、吉阪隆正の設計により1950年代に建てられた。当時の日本の国力からすれば異例の快挙であるが、ブリジストンの資金援助もあり実現した。石本が設計にかかわった広島市民球場も、広島市民からの募金が建設資金となった。
昭和20年代・30年代には、人々はそうやって建築に思いを込めてきたが、現代ではそのような思いは失われたのかもしれない。
昨今、東京タワーが映画の影響などで再評価されているが、同時代の他の建築はあまり注目されず、東京タワーがひとり勝ち組の状態である。そうした現象も起こっている」



平山 「旧市庁舎も厚生会館も、シンプルであるが、そのぶん建てた人々の 『がんばった感』 がひしひしと感じられる建築である。
では、2番目の議題として、昭和20年代・30年代の建築が今なお現存し、利用されているということには、どのような意味があるのか」



中谷 「重要な建築作品さえ残せば、他の建築は壊してよいのか?それは保存における差別ではないか?という問題は、以前から存在している。
人々の思いの変化とともに、建築の扱いも変化する。旧日本政府によりソウルに建てられた朝鮮総督府庁舎は、第二次大戦後もアメリカ軍や韓国政府の施設として、また博物館として利用され続けてきた。しかし残すべきか残さざるべきかの激しい議論の末、取り壊されることになった。建物をどう扱っていくかは、設計者の論理よりも使用者の論理を重んじよ、という考え方もある」



五十嵐 「大阪・船場で行われた建築シンポジウムでは、以下のようなことが話題になった。
1920~30年代の建築は、わかりやすいモチーフの装飾などが多く、一般の人々が親しみ易い面があり、壊されず残って使用されているケースも多い。ところが、それに続く1950~60年代の建築は、目だつ装飾も無くどこに注目すべきか取っかかりが持ちづらいところがあり、その結果どんどん壊されて数が減っているという。(都市計画学者の中島直人氏は、それを 『続近代建築』 の危機 と、面白い表現をしていた。)
建築にどう注目し、愛着を育てていくかが重要なポイントである」



平山 「永原さんが設計した建築作品にも、壊されるものが出てきているのではないか?」



永原 「それについては悲しく感じる。
しかし建築は多様な価値基準のもとに存在する。文化的価値に加え、不動産としての価値、街並みを形成する価値、コミュニティに貢献する価値・・・
それらの価値が時代とともにズレてしまったとしたら、その建築が無くなってしまうのも、いたしかたないのかもしれない。
だが、今回の厚生会館の場合は、この場所はもともと長岡城の本丸があった土地であり、厚生会館が取り壊された後にはシティホールが建てられる予定である。お城だった土地の文脈が、再び新たに受け継がれていくということは評価したい」



中谷 「1950~60年代の建築が減ってきていると言っても、現存する明治の建築に比べれば、圧倒的に数が多い。だからと言って、気安く壊していいという訳ではないが。
私は、90年前にある人が訪れて本にまとめた全国の民家を、再訪・調査する活動をしている。(ブログ筆者注:ある人とは今和次郎のことと思われる) 対象となる約60軒の民家のうち、すでに約40軒の場所を特定して訪れた。すると驚くべきことに、そのうちなんと7割が今も現存し、使われていた。
共通していたのは、そこに住む人々が、『古い貴重な建物を扱う』 という意識などは全然無く、『日常的に、ごく普通に』 民家を使っていたことである。
自覚を持つことより、理屈抜きで普通に使いこなすことの方が重要なのかもしれない。文化財とみなされて保存運動が起きたりする段階は、実は末期的とも言える。ちょっと引いた視点が必要。保存運動ではなくその手前の、普通の状態が良い。
旧長岡市庁舎も厚生会館も、今日も市民が普通に利用している光景をたくさん見ることができ、好感を持った。『これをなぜ壊す必要があるのか・・・』 という気もする」



五十嵐 「たとえ廃墟になったとしても、残ってほしい建築というものがある。そういったものは廃墟のままであっても、ある時代に突然よみがえって建築として再び使われることがある。パリのオルセー駅舎は、その役目を終えた後も解体されることなく、ずっとそのまま放っておかれていた。それがあるとき素晴らしい美術館としてよみがえり、世界中の人を集めている。
使われなくなっても、すぐに壊してしまわずそのままにしておくという選択肢もある。しかし日本の社会の仕組みとして、壊すことを前提にすると予算がつく、というところがある。
宮崎県の都城市民会館は、菊竹清訓が設計した力強い傑作建築だったが、解体の話が持ち上がっていた。保存運動も盛んに行われたが、結局、取り壊されることが決定した。ところが、都城にキャンパスを移転する大学が、市民会館を大学の施設として利用したいと申し出て、一転して市民会館は存続利用されることになった。こういうケースもある」



平山 「もうこの話題に入っているような気もするが、3番目の議題として、現存する昭和20年代・30年代の建物は、今後どうなっていくと思うか。どう扱っていくべきか」



中谷 「『解体しやすく作られた建築』 というのは、実は 『修理しやすい建築』 でもあり、結果として長く残る建築になる。『解体しにくいように、長持ちさせようと』 作った建築のほうが、こまめな修理がしにくく、すぐに解体せざるを得なくなる、ということが起こりうる。
木造では、柱寸法が4寸角のものは、他の部材を接合したり転用したりという余裕(=冗長性)があるので、建物は長く利用される。しかし柱を3寸5分という寸法で建てると、経済的かもしれないが、そういった 『冗長性』 や 『遊び』 に欠けるので、早くに壊されてしまう。
昭和20年代・30年代の建築は、切迫した時代状況下に建てられたがために、(力強い存在感をそなえてはいるが、)もしかしたらそうした冗長性に欠けるきらいがあるのかもしれない。建築を設計するときに、経済性や効率のみを重視してギリギリの設計をするのではなく、少し余裕を持たせた設計をしても良いのではないか」



永原 「話としてはわかるが、それは現実の世の中では、なかなかむつかしいことだと思う。
古い建物を残そうとした場合、安全上・環境上の問題をクリアしなければならない。その結果、姿がまったく違ったものになってしまったら、保存の意味をなさない」


(終演時間が近づく)


平山 「それでは最後に感想を」



永原 「今日、旧市庁舎と厚生会館を訪れてみて、竣工当時から今日まで市民にずっと利用されているのを知り、驚きと感謝の気持ちを持った。厚生会館はこれから取り壊されるが、この建物は長岡の文化に充分貢献したのではないかと思う」



中谷 「今日のような、建築の 『とむらいの会』 に呼ばれることがあるが、正直なところ、あまり出席したくはない。私も東京で地道な活動をしているので、長岡の人もぜひがんばってね!と言いたい」



五十嵐 「厚生会館は竣工当時、強い思いを込めて建てられた建築である。なので、そのあとを引き継ぐ建築は、ぜひがんばって良いものにしていただきたい」



平山 「石本事務所にて旧市庁舎の図面を見たとき、1階に診療施設が、地下にレントゲン撮影設備があったことを知り、非常に驚いた。役所にそのような施設が併設されているのはたいへん異例である。
旧市庁舎は平面計画は一見シンプルだが、そういった市民の健康への配慮や、建物をカーブさせるなど、親しみやすい建築を実現している。厚生会館にも同じ理念が生きている。今後これらの建物がどうなっていくのか、最終的に決めるのは市民の皆さん自身である」



Thursday, December 04, 2008

荒俣宏講演会に行ってきた



11月23日(日) 長岡市のホテルニューオータニ・NCホールに出かけて、「NPO法人 醸造の町 摂田屋町おこしの会」 が主催した、『機那サフラン酒本舗 鏝絵蔵修復記念 荒俣宏講演会・うわべを飾るアート 鏝絵(こてえ)』 を聞いてきた。


↓修復なった、サフラン酒造の鏝絵蔵

 荒俣さんが長岡にいらして、鏝絵蔵についてお話をされるのは、2年前に続いて2度目だそうだ。私は前回は聞き逃して、今回が初の生アラマタだった。


 荒俣さんのお話の骨子は、鏝絵を 「うわべを飾るもの」 と捉え、長岡・摂田屋のサフラン酒造の鏝絵が、古今東西の 「うわべを飾るもの」 の中で、どのように位置づけられると考えられるのか、スライドを交えて、荒俣さんの見立てを紹介するというものだった。
 どんな感じの内容だったかと言うと…
 ↓


 サフラン酒造の鏝絵蔵の特徴は、なんと言っても、その原色の濃さ、「ケバさ」 にある。それはいわゆる日本的なわびさびとは対極にあり、他には日光東照宮の例もあるが、雪深い長岡の地にそのような実例が見られるのは興味深い。


 鏝絵で名高いのは 『伊豆の長八』 だが、長八が活躍したのは江戸末期から明治にかけてであり、大正期に建てられたサフラン酒造蔵とは、時代的にも技術伝播の面でも直接の関係は無いようだ。


 その長八には、明治期の新日本政府がたいへん注目していた。理由は、西洋建築技術を日本に取り入れる際に、特にそのインテリアの装飾を再現するという点において、鏝絵の技術が有用だと考えられたためである。


 西洋建築の華美なインテリアは、壁面のしっくいが乾かないうちに絵を描いて定着させるフレスコ画と、壁面に立体造形をほどこすレリーフから成る。鏝絵はそのどちらにも対応できる技術というわけだ。
 さらにインテリアだけでなく外壁にも用いることができ、例えば西洋建築の外壁によく見られるトロンプ・ルイユ的 「だまし窓」 の再現などにも応用できると考えられた。


 しかし、左官技術である鏝絵は施工にたいへんな時間がかかること、ユニット化・パーツ化にはそぐわないものであることから、技術が広まるには至らなかった。特に今から40~50年前くらいから急速に、左官が鏝絵の腕を振るうことのできる場が無くなっていった。


 最近でこそ鏝絵は世間から多少は注目されるようになってきたが、荒俣さんらが 「路上観察」 として、鏝絵を含めた在野の奇妙な造形物の事例を、感性のままに収集し、夜ごと報告しあって楽しむ活動を始めた20年ほど前は、鏝絵とそれを見つめる人々のことは、世間からはまったくかえりみられることは無かった。
 (ちなみに、路上観察の感性とは、松尾芭蕉の言う 「もののあはれ」 と同様のものであるそうだ。)


 鏝絵がほどこされた蔵や社寺の実例は、大分県や島根県など各所で見られる。大分県安心院町(あじむちょう)では、現役の鏝絵師も活躍しているようだ。荒俣さん自身も東京根津で、壊される直前の建物に鏝絵を見つけ、壁ごと保存したりしている。


 サフラン酒造と同時期の建築に、伊東忠太が設計した築地本願寺がある。忠太は「すべての建築は木から土へ、石へ進化する」 と唱えたそうで、関東大震災を経験した時代の要請もあり、寺社仏閣の設計に鉄筋コンクリート造を採用した。しかしその表面には異形の動物を彫刻したり、コンクリートの外部柱の仕上げ材に漆を用いたりした。(耐火被覆として?)
 まさに 「うわべを飾る」 大家であった。


 それでは、21世紀において、鏝絵の持つ意味とは何か。
 その答えとして、左官職が、物(もの)と霊(モノ)との掛け渡しをしてきた仕事であることに注目したい。


 象徴や守り神といった精神的な作用を、目に見える形に表現してきたのが、左官の仕事であった。神社などに見られる龍のモチーフは水のシンボルであり、建物の防火を意味する。
 同様の例は西洋でも見られる。例えば、ライオンは 「門番」 を象徴している。それが理由でドアノッカーはライオンの形をしている。
 鏝絵が奇怪なのは、装飾が呪術と深い関わりがあったことと関係している。「呪術としての装飾」 の究極のものは、西洋に見られる 「グロッタ」 である。


 つまり、「うわべを飾るもの」 とは、霊を鎮める仕事である。鏝絵が注目されているのは、21世紀は精神的なものがますます重要になるという予感が、皆にあるからではないだろうか。


 例えば銭湯に付き物のタイル絵やペンキ絵も、身近にある呪術としての装飾であり、「うわべを飾るもの」 である。
 皆さんも街に出て、そのような装飾を探して楽しんでみてはいかがだろうか。
 (荒俣さんは最後に、「通販で買える銭湯のペンキ絵もあります」 と話し、壁に小さな富士山の絵を貼り付けた一般家庭の風呂に、男性が笑いながら浸かっている写真で、講演は締めくくられた。)



 …というような内容でした。 
 私が荒俣さんのお話を聞いて一番印象的だったのは、「サフラン酒造鏝絵蔵と築地本願寺が、同じ時代(大正)の建物である」 ということだった。
 私はそれを聞いて、むしろ伊東忠太の方に関心を引かれた。


 忠太のことはあまり詳しくないが、私には彼の仕事が、寺社建築にRC造を採用するなど、すごく 「大正時代」 を体現しているように感じられた。そのくせ、私のこれまでの見聞の範囲からも、また今回の荒俣さんのお話からも、やっぱり伊東忠太は帝大出のエリートのくせに、「うわべを飾る大家」 というイメージがぴったりである。
 私はその振れ幅に魅力を感じたのかなあ、と思った。


 反面、サフラン酒造蔵は造形的・図像学的にはきわめて面白いが、意味合いから言うと、連綿と続く左官の技術としての 「うわべを飾るもの」 を正調に受け継ぐものであり、ベクトルはむしろ過去の方向を向いている。そこには例えば、新しい時代の技術と折り合いを付けようと苦心したような跡などは、あまり無いように見える。
 その点で私には、これが大正時代の建物であるということに、少し意外さを感じた。伊東忠太と並べて提示されたので、このことに初めて気がついた。


 講演会の質問タイムでは、私は荒俣さんに、サフラン酒造蔵と伊東忠太が同時代の存在であることについて、ぜひ聞いてみようと思った。だが私の関心はどちらかというと忠太の振れ幅のほうにあったので、「荒俣さんにどう聞いたらいいのかなあ。今日の荒俣さんの主張は 『街で装飾(呪術)を見つけよう』 ということだったから、ハイブリッドな存在としての忠太のことについては、あまりお答えはもらえなさそうな感じだなあ。さてどう聞くか」 と考えていた。


 しかし講演会では質問タイムは設けられず、荒俣さんはお話を終えると、すぐに退席されてしまった。終了後に、主催者側のおひとりだった渡辺誠介・長岡造形大准教授にお会いしたので、少しお話を聞くと、前回荒俣さんが講演にいらしたときに、質問タイムで非常にマニアックな質問が出て、一般のお客さんが多少引いたり、質問がそのひとつしか受けられなかったりしたので、今回はあえて質問タイムを設けなかった、ということであった。…そうでしたか。


 前回の質問がどんなものだったか分かりませんが、私の質問もたぶん十二分にマニアックなものなので、まあ良かったのかな。おそらく荒俣さんを交えて内輪の懇親会などが開かれたであろうから、お願いして参加させてもらってもよかったが、私はこの日、後に別の用事があったので、叶わなかった。


 荒俣さんはテレビなどで見るとおり、とてもお話が達者で、自分の話す内容が自分で面白くて仕方がないというような、聞いていて引き込まれるお話ぶりだった。伊東忠太についての知見は得られなかったが、生で荒俣さんのお話を聞けたことはとても面白かった。そして荒俣さんの立ち位置も講演の結論も、あくまで 「もののあはれの建築探偵」 であった。


 ここで告白すると、私は建築探偵団や、「建築と都市を考える会」での「街歩き」活動は、実はいまひとつ苦手なのだ。「おまえもこのブログで同じようなことをやっているだろう」 と言われると、まあその通りなんだが、個人の問題意識で活動するのは面白いが、集団で事例をただ集めることは面白くないのだ。例えば集めた事例をもとに皆で分類してみたり話し合ってみたりすると、がぜん面白くなるんだが、いまのところ建都会街歩きは、集めた事例をそのまま提示して終わりの 「街歩きファイル」 というフォーマット止まりなので、私には面白くないのである。
 建築探偵=路上観察については実は批評できるほど詳しくないのであるが、何と言ってもパイオニアであるし(あるいは今和次郎を祖とする「中興の祖」?)以前に藤森照信さんの展覧会に行ったときに、路上観察の発足当時に、全員が燕尾服姿で路上に立って 「路上観察学会宣言」 を読み上げている写真を見ているので、「そこまでの本気には誰も文句は言えないなあ」 という気がする。


 しかし建都会の 「街歩きファイル」 にはまずもって、それを見てくれる一般の人々の、街への関心を喚起しようという意図がある。今回の荒俣さんの講演の結論も同様のものであったし、建都会が昨年のグループ作品展 『景観しよう!』 や先日の近代建築シンポジウムで主張してきたことも、まったく同様のことである。
 長岡でこのように同時多発的に、同じ主張がなされる機会があったということは、実は凄いことなんじゃないだろうか? これらを経験した一般市民の誰かから、身近な街への働きかけの、何か新たな動きが発生したとしても、まったく不思議ではない。


 そして私個人にとっては、今回荒俣さんによって 「すべての街の装飾には、呪術的・精神的な意味がある」 という視座を与えてもらった。いったんそのように街を捉えると、一気にチャンネルが拡がったような見え方になるではないか…!