長岡市厚生会館
10月26日、旧長岡市庁舎・厚生会館の、建築見学会とシンポジウムは、予想を超える盛況のなか、無事に執り行われました。参加していただいた皆様、ご協力・ご尽力いただいた皆様、まことにありがとうございました。
当日の朝から始まった設営準備では、私はとにかく自分の割り当てを全うすることにちからを注ぎました。関係者すべてがそのように考え、自分の責任を果たすことで、短い準備期間・設営時間のなか、どうにかお客様をお迎えできるだけの準備を整えられたかと思います。
建築見学会は、柳原の旧市庁舎に集合し、かんたんなレクチャーの後、庁舎の建物を、7階の展望塔から外観までひととおり見学しました。その後、徒歩にて厚生会館まで移動し、大ホール・アリーナを中心に見学しました。アリーナの天井点検口のタラップから、3名ずつくらい屋根裏に上ってキャットウォークに立っていただき、投光器で鉄骨トラス小屋組みを照らし、見学していただきました。
(私は運営にいそがしく、見学会の写真は撮っていません。)
約40名の参加者の皆様は、建物の見学や移動でたくさん歩いて、かなりお疲れになったかと思いますが、熱心に興味深く見学していただけたようで、たいへん良かったです。ありがとうございました。当日の天気予報はかんばしくなく、大雨の予想もあったのですが、幸いにも見学時や移動時は曇り空のまま持ち、雨が落ちることはなく、胸をなで下ろしました。
シンポジウムの第1部として、厚生会館の中ホールを会場に、石本建築事務所相談役の古畠誠一氏により、基調講演 「建築家・石本喜久治」 が行われました。
古畠氏には、石本喜久治の卒業設計から、竹中工務店において東京朝日新聞社屋を設計し、そして片岡安氏の庇護協力のもと独立し、白木屋百貨店をはじめ数々の作品を設計した生涯を、スライドとともにご紹介いただきました。
旧長岡市庁舎・厚生会館に対する石本喜久治の取り組みも紹介され、特に厚生会館は、冬季も使える運動場機能や公演のための音響設備など、市からの要求プログラムが多岐に渡ったが、それらをすべて満たした末の設計であったことが述べられました。
石本喜久治の人となりについても、限られた時間のなか断片的ながらお話しいただき、私はそれをとても面白く感じました。「入所希望者のバランス感覚を推し量るために、試験として1本の線香を等分に折ることを命じた」 とか、「やっと描き上げたトレペの図面にもどんどん鉛筆や赤鉛筆を入れるので、閉口する所員もいた」 とか。(こういうのはどこの事務所でも多少はあることですね。)
所員に対しては厳しい人だったが、反面ふだんはモダンな伊達男で、女性からは一目置かれていたということ。また、設計事務所を近代的な組織として成立させることにかなり腐心し、石本が亡くなったときに弔辞を読んだ村野藤吾は、その組織確立の手腕と業績を称えたそうです。私は石本と村野に深い交流があったことを、古畠さんのお話で初めて知りました。
会場には、石本事務所と建都会が作成した資料パネルをディスプレイし、休憩時間などに皆さんに自由に見ていただきました。このパネルに使う資料の選定のため、石本事務所にて当時の図面などを見た平山育男・長岡造形大教授は、それらのすぐれた史料的価値に感激されたそうです。
第2部として、パネルディスカッションが行われました。コーディネーターは平山先生、パネリストは、永原昌平氏(石本事務所顧問)、中谷礼仁氏(早大准教授)、五十嵐太郎氏(東北大准教授)の3名。
以下は、私なりのまとめです。
平山 「各建物を見た感想はどうか」
永原 「私は新潟市の出身だが、長岡は文化が豊かだというイメージを持っていた。旧市庁舎はシンプル。高い塔は物見台として役立ったのではないか。厚生会館は市庁舎での経験を生かし、積雪対策の足元の処理などに、より進歩を感じる」
中谷 「どちらも懐かしさを感じる建物。と言っても既視感という意味ではなく、もっと根源的・本質的に懐かしい。
市庁舎は明治の擬洋風建築を連想させる。とくに佐久の中込学校に通じる清廉潔白さがある。厚生会館は、伝統論争が盛んだった時代背景とともに、『民家』 『大きな屋根』 というデザインソースを感じさせる。コルビュジェのソヴィエトパレス計画案のアーチの影響もあるかもしれない」
平山 「擬洋風との関連についてもう少し」
中谷 「地域の技術者(大工)が西洋建築を観察し、それを咀嚼吸収して木造で表現したのが擬洋風建築だが、それと同じような姿勢を感じる。アプローチの正面に塔を設け、あわせてバルコニーを設けるという特徴も、共通している」
五十嵐 「石本喜久治の作品をちゃんと見たのは初めて。いま 『窓学』 というものをやっているので、丸窓の名手の石本は興味深い。
市庁舎は石本の建築の特徴であり、また地方において求められることの多い 『塔』 が採用されている。そうすると権威的になりがちだが、平面をカーブさせたり屋根階のデザインを変化させるなど、対称性を上手に崩し、親しみやすい建築にしている。
厚生会館は、おむすびみたいな形でかわいい。アーチが印象的だが、正面から少しセットバックさせて威圧感を軽減している。その正面と、力強い列柱に支えられた側面では印象がかなり違う。正面にごく小さなバルコニーがあるのも、カワイイ」
平山 「塔や尖った形は、卒業設計以来の石本の大事なモチーフだったのではないかと思う。
さて、旧市庁舎は昭和30年・厚生会館は昭和33年の竣工だが、昭和20年代~30年代(1950年代)の建築について、どう思うか」
永原 「RC(鉄筋コンクリート)の技術が高度に発展していった時代だと思う。
厚生会館のRC打放しも、当時のもののはずだが、重大な損傷も無くきれいに保たれている」
中谷 「歴史を超えてきた建築にはふたつの共通点がある。ひとつは建築として普遍性があること。もうひとつは愛されていること。
RC造はコンクリートを型枠に流し込むだけなので、評価としては実はむつかしい技術ではなく、木造や鉄骨造のほうが高度である。RC造が大工の高度な木造技術により独自に発展したのが、日本の特徴。
20~30年代の建築は、技術的には現在のものより高くはないかもしれないが、力強さを感じる。それは、建設に込められた人々の思いが力強いからである」
五十嵐 「先日までコミッショナーとしてヴェネチア建築ビエンナーレに参加していたが、会場の 『日本館』 は、吉阪隆正の設計により1950年代に建てられた。当時の日本の国力からすれば異例の快挙であるが、ブリジストンの資金援助もあり実現した。石本が設計にかかわった広島市民球場も、広島市民からの募金が建設資金となった。
20~30年代には、人々はそうやって建築に思いを込めてきたが、現代ではそのような思いは失われたのかもしれない。
昨今、東京タワーが映画の影響などで再評価されているが、同時代の他の建築はあまり注目されず、東京タワーがひとり勝ち組の状態である。そうした現象も起こっている」
平山 「旧市庁舎も厚生会館も、シンプルであるが、そのぶん建てた人々の 『がんばった感』 がひしひしと感じられる建築である。
では、現存している20~30年代の建築は、どう扱っていくべきだと思うか」
中谷 「人々の思いの変化とともに、建築の扱いも変化する。旧日本政府によりソウルに建てられた朝鮮総督府庁舎は、第二次大戦後もアメリカ軍や韓国政府の施設として、また博物館として利用され続けてきた。しかし残すべきか残さざるべきかの激しい議論の末、取り壊されることになった」
五十嵐 「大阪・船場で行われた建築シンポジウムでは、以下のようなことが話題になった。
20~30年代の建築は、わかりやすいモチーフの装飾などが多く、一般の人々が親しみ易い面があり、壊されず残って使用されているケースも多い。ところが、それに続く50~60年代の建築は、目だつ装飾も無くどこに注目すべきか取っかかりが持ちづらいところがあり、その結果どんどん壊されて数が減っているという。(中島直人氏は、それを 『続近代建築』 の危機 と、面白い表現をしていた。)
建築にどう注目し、愛着を育てていくかが重要なポイントである」
平山 「永原さんが設計した建築作品にも、壊されるものが出てきているのではないか?」
永原 「それについては悲しく感じる。
しかし建築は多様な価値基準のもとに存在する。文化的価値に加え、不動産としての価値、街並みを形成する価値、コミュニティに貢献する価値・・・
それらの価値が時代とともにズレてしまったとしたら、その建築が無くなってしまうのも、いたしかたないのかもしれない。」
中谷 「50~60年代の建築が減ってきていると言っても、現存する明治の建築に比べれば、圧倒的に数が多い。だからと言って、気安く壊していいという訳ではないが。
私は、90年前にある人が訪れて本にまとめた全国の民家を、再訪・調査する活動をしている。(ブログ筆者注:ある人とは今和次郎のことと思われる) 対象となる約60軒の民家のうち、すでに約40軒の場所を特定して訪れた。すると驚くべきことに、そのうちなんと7割が今も現存し、使われていた。
共通していたのは、そこに住む人々が、『古い貴重な建物を扱う』 という意識などは全然無く、『日常的に、ごく普通に』 民家を使っていたことである。
自覚を持つことより、理屈抜きで普通に使いこなすことの方が重要なのかもしれない。文化財とみなされて保存運動が起きたりする段階は、実は末期的とも言える。ちょっと引いた視点が必要。保存運動ではなくその手前の、普通の状態が良い。
旧長岡市庁舎も厚生会館も、今日も市民が普通に利用している光景をたくさん見ることができ、好感を持った。『これをなぜ壊す必要があるのか・・・』 という気もする」
五十嵐 「たとえ廃墟になったとしても、残ってほしい建築というものがある。そういったものは廃墟のままであっても、ある時代に突然よみがえって建築として再び使われることがある。パリのオルセー駅舎は、その役目を終えた後も解体されることなく、ずっとそのまま放っておかれていた。それがあるとき素晴らしい美術館としてよみがえり、世界中の人を集めている。
使われなくなっても、すぐに壊してしまわずそのままにしておくという選択肢もある。しかし日本の社会の仕組みとして、壊すことを前提にすると予算がつく、というところがある。
宮崎県の都城市民会館は、菊竹清訓が設計した力強い傑作建築だったが、解体の話が持ち上がっていた。保存運動も盛んに行われたが、結局、取り壊されることが決定した。ところが、都城にキャンパスを移転する大学が、市民会館を大学の施設として利用したいと申し出て、一転して市民会館は存続利用されることになった。こういうケースもある」
中谷 「『解体しやすく作られた建築』 というのは、実は 『修理しやすい建築』 でもあり、結果として長く残る建築になる。『解体しにくいように、長持ちさせようと』 作った建築のほうが、こまめな修理がしにくく、すぐに解体せざるを得なくなる、ということが起こりうる。
木造では、柱寸法が4寸角のものは、他の部材を接合したり転用したりという余裕(=冗長性)があるので、建物は長く利用される。しかし柱を3寸5分という寸法で建てると、経済的かもしれないが、そういった 『冗長性』 や 『遊び』 に欠けるので、早くに壊されてしまう。
20~30年代の建築は、もしかしたらそうした冗長性に欠けるきらいがあるのかもしれない。建築を設計するときに、経済性や効率のみを重視してギリギリの設計をするのではなく、少し余裕を持たせた設計をしても良いのではないか」
永原 「話としてはわかるが、それは現実の世の中では、なかなかむつかしいことだと思う」
(終演時間が近づく)
平山 「それでは最後に感想を」
永原 「今日、旧市庁舎と厚生会館を訪れてみて、竣工当時から今日まで市民にずっと利用されているのを知り、驚きと感謝の気持ちを持った。厚生会館はこれから取り壊されるが、この建物は長岡の文化に充分貢献したのではないかと思う」
中谷 「今日のような、建築の 『とむらいの会』 に呼ばれることがあるが、正直なところ、あまり出席したくはない。私も東京で地道な活動をしているので、長岡の人もぜひがんばってね!と言いたい」
五十嵐 「厚生会館のあとに続く建物を、ぜひがんばって良い建築にしていただきたい」
平山 「石本事務所にて旧市庁舎の図面を見たとき、1階に診療施設が、地下にレントゲン撮影設備があったことを知り、非常に驚いた。役所にそのような施設が併設されているのはたいへん異例である。
旧市庁舎は平面計画は一見シンプルだが、そういった市民への配慮や、建物をカーブさせるなど、親しみやすい建築を実現している。厚生会館にもその理念は生きている。今日はそのようなことを、われわれにも市民の皆さんにも知らしめる機会になったと思う」
(以上まとめ・終わり
問題がある場合は workability1970@yahoo.co.jp 野田英世 までご指摘ください。)
最後は若干しめっぽい雰囲気で終わりましたが・・・
私が一番印象に残ったのは、「保存運動の手前の、普通に利用していることが良い」 ということ。現在の旧市庁舎・厚生会館の姿は、まさにそれです。旧市庁舎の一角は中央公民館として開放され、また併設の自然博物館は無料で観覧することができます。厚生会館は現在、「市展」 の会場として、市民の芸術作品を展示する準備が進んでいるはずです。長岡市民は今日も、このふたつの建物を使いたおしています。
ここで思い出すのが、先の9月26日に、新しいシティホールの設計者である隈研吾氏を長岡に招いて行われたシンポジウムとパネルディスカッションのことです。ブログには書いていませんでしたが、私はこれに参加していました。
その席で、森民夫・長岡市長が現在の市民センターについて述べていました。現市民センターは、大手通にある閉店したデパートの建物をそのまま使い、市役所やハローワークの分室、国際交流センター、花火ミュージアムなどを入れ込んだ施設です。デパートの建物をそのまま利用したのもすごいですが、森市長は、その中の高校生のための自習コーナーが、自然発生的に生まれ、それが管理面などきちんとした施設コーナーへと定着していったというエピソードを紹介していました。森市長はパネルディスカッションを、「建物は竣工して終わりではなく使ってこそ価値がある。市民の皆さんには新しいシティホールをぜひ使いこなして欲しい。」 と結んでいました。
私が思うに、そういった普通に建物を使っていく 「才能」 や 「遺伝子」 が、長岡の人には割とあるような気がします。確かな根拠はありませんが、そう捉えてみたときに、なんとなく腑に落ちる感じが私にはあります。今回のシンポジウムでは、そのことに気付くことができたのが、私としては最大の収穫だったように思います。
そして、厚生会館はいずれなくなってしまいますが、そのときに私が感じるであろう喪失感や淋しさ・悲しさは、シンポジウムを経験する前より、確実に深いものになってしまっただろう、と思います。
パネルディスカッションは、気鋭の学者と練達の実務者というパネリストのバランスにより、たいへん興味深いものになりました。また私は、第一線の建築史家の(それも複数の!)お話を初めて聞きましたが、一流の学者のアトラクティブネスと、知の底力のようなものを、強く感じました。私は今までは、建築アカデミズムの周辺をうろうろし続けるだけで今日まで来ましたが、「きちんと蓄積されてきた知の威力」 を痛感させられたような気がします。
終了後、関係者により、打ち上げと懇親会が行われ、私は会場撤収後に合流しました。
その席で私は、古畠誠一さんと長い時間お話することができました。本編の基調講演では出てこなかった石本喜久治のエピソードを、堅い話からやわらかい話まで、たくさんお聞きしました。そして、古畠さんご本人が一途に建築に打ち込まれてきたお話も、お聞きすることができました。
エネルギッシュにお話される古畠さんの姿を私は忘れられないとともに、建築家・石本喜久治という人物にも思いを馳せずにはいられません。
ともあれ、今回の企画は、今後の私の建築人生に、相当大きな影響を与えそうなものになりました。かさねがさね、ありがとうございました。
(遠大なエントリーになってしまいました・・・すみません。)
No comments:
Post a Comment