11月23日(日) 長岡市のホテルニューオータニ・NCホールに出かけて、「NPO法人 醸造の町 摂田屋町おこしの会」 が主催した、『機那サフラン酒本舗 鏝絵蔵修復記念 荒俣宏講演会・うわべを飾るアート 鏝絵(こてえ)』 を聞いてきた。
↓修復なった、サフラン酒造の鏝絵蔵
荒俣さんが長岡にいらして、鏝絵蔵についてお話をされるのは、2年前に続いて2度目だそうだ。私は前回は聞き逃して、今回が初の生アラマタだった。
荒俣さんのお話の骨子は、鏝絵を 「うわべを飾るもの」 と捉え、長岡・摂田屋のサフラン酒造の鏝絵が、古今東西の 「うわべを飾るもの」 の中で、どのように位置づけられると考えられるのか、スライドを交えて、荒俣さんの見立てを紹介するというものだった。
どんな感じの内容だったかと言うと…
↓
サフラン酒造の鏝絵蔵の特徴は、なんと言っても、その原色の濃さ、「ケバさ」 にある。それはいわゆる日本的なわびさびとは対極にあり、他には日光東照宮の例もあるが、雪深い長岡の地にそのような実例が見られるのは興味深い。
鏝絵で名高いのは 『伊豆の長八』 だが、長八が活躍したのは江戸末期から明治にかけてであり、大正期に建てられたサフラン酒造蔵とは、時代的にも技術伝播の面でも直接の関係は無いようだ。
その長八には、明治期の新日本政府がたいへん注目していた。理由は、西洋建築技術を日本に取り入れる際に、特にそのインテリアの装飾を再現するという点において、鏝絵の技術が有用だと考えられたためである。
西洋建築の華美なインテリアは、壁面のしっくいが乾かないうちに絵を描いて定着させるフレスコ画と、壁面に立体造形をほどこすレリーフから成る。鏝絵はそのどちらにも対応できる技術というわけだ。
さらにインテリアだけでなく外壁にも用いることができ、例えば西洋建築の外壁によく見られるトロンプ・ルイユ的 「だまし窓」 の再現などにも応用できると考えられた。
しかし、左官技術である鏝絵は施工にたいへんな時間がかかること、ユニット化・パーツ化にはそぐわないものであることから、技術が広まるには至らなかった。特に今から40~50年前くらいから急速に、左官が鏝絵の腕を振るうことのできる場が無くなっていった。
最近でこそ鏝絵は世間から多少は注目されるようになってきたが、荒俣さんらが 「路上観察」 として、鏝絵を含めた在野の奇妙な造形物の事例を、感性のままに収集し、夜ごと報告しあって楽しむ活動を始めた20年ほど前は、鏝絵とそれを見つめる人々のことは、世間からはまったくかえりみられることは無かった。
(ちなみに、路上観察の感性とは、松尾芭蕉の言う 「もののあはれ」 と同様のものであるそうだ。)
鏝絵がほどこされた蔵や社寺の実例は、大分県や島根県など各所で見られる。大分県安心院町(あじむちょう)では、現役の鏝絵師も活躍しているようだ。荒俣さん自身も東京根津で、壊される直前の建物に鏝絵を見つけ、壁ごと保存したりしている。
サフラン酒造と同時期の建築に、伊東忠太が設計した築地本願寺がある。忠太は「すべての建築は木から土へ、石へ進化する」 と唱えたそうで、関東大震災を経験した時代の要請もあり、寺社仏閣の設計に鉄筋コンクリート造を採用した。しかしその表面には異形の動物を彫刻したり、コンクリートの外部柱の仕上げ材に漆を用いたりした。(耐火被覆として?)
まさに 「うわべを飾る」 大家であった。
それでは、21世紀において、鏝絵の持つ意味とは何か。
その答えとして、左官職が、物(もの)と霊(モノ)との掛け渡しをしてきた仕事であることに注目したい。
象徴や守り神といった精神的な作用を、目に見える形に表現してきたのが、左官の仕事であった。神社などに見られる龍のモチーフは水のシンボルであり、建物の防火を意味する。
同様の例は西洋でも見られる。例えば、ライオンは 「門番」 を象徴している。それが理由でドアノッカーはライオンの形をしている。
鏝絵が奇怪なのは、装飾が呪術と深い関わりがあったことと関係している。「呪術としての装飾」 の究極のものは、西洋に見られる 「グロッタ」 である。
つまり、「うわべを飾るもの」 とは、霊を鎮める仕事である。鏝絵が注目されているのは、21世紀は精神的なものがますます重要になるという予感が、皆にあるからではないだろうか。
例えば銭湯に付き物のタイル絵やペンキ絵も、身近にある呪術としての装飾であり、「うわべを飾るもの」 である。
皆さんも街に出て、そのような装飾を探して楽しんでみてはいかがだろうか。
(荒俣さんは最後に、「通販で買える銭湯のペンキ絵もあります」 と話し、壁に小さな富士山の絵を貼り付けた一般家庭の風呂に、男性が笑いながら浸かっている写真で、講演は締めくくられた。)
…というような内容でした。
私が荒俣さんのお話を聞いて一番印象的だったのは、「サフラン酒造鏝絵蔵と築地本願寺が、同じ時代(大正)の建物である」 ということだった。
私はそれを聞いて、むしろ伊東忠太の方に関心を引かれた。
忠太のことはあまり詳しくないが、私には彼の仕事が、寺社建築にRC造を採用するなど、すごく 「大正時代」 を体現しているように感じられた。そのくせ、私のこれまでの見聞の範囲からも、また今回の荒俣さんのお話からも、やっぱり伊東忠太は帝大出のエリートのくせに、「うわべを飾る大家」 というイメージがぴったりである。
私はその振れ幅に魅力を感じたのかなあ、と思った。
反面、サフラン酒造蔵は造形的・図像学的にはきわめて面白いが、意味合いから言うと、連綿と続く左官の技術としての 「うわべを飾るもの」 を正調に受け継ぐものであり、ベクトルはむしろ過去の方向を向いている。そこには例えば、新しい時代の技術と折り合いを付けようと苦心したような跡などは、あまり無いように見える。
その点で私には、これが大正時代の建物であるということに、少し意外さを感じた。伊東忠太と並べて提示されたので、このことに初めて気がついた。
講演会の質問タイムでは、私は荒俣さんに、サフラン酒造蔵と伊東忠太が同時代の存在であることについて、ぜひ聞いてみようと思った。だが私の関心はどちらかというと忠太の振れ幅のほうにあったので、「荒俣さんにどう聞いたらいいのかなあ。今日の荒俣さんの主張は 『街で装飾(呪術)を見つけよう』 ということだったから、ハイブリッドな存在としての忠太のことについては、あまりお答えはもらえなさそうな感じだなあ。さてどう聞くか」 と考えていた。
しかし講演会では質問タイムは設けられず、荒俣さんはお話を終えると、すぐに退席されてしまった。終了後に、主催者側のおひとりだった渡辺誠介・長岡造形大准教授にお会いしたので、少しお話を聞くと、前回荒俣さんが講演にいらしたときに、質問タイムで非常にマニアックな質問が出て、一般のお客さんが多少引いたり、質問がそのひとつしか受けられなかったりしたので、今回はあえて質問タイムを設けなかった、ということであった。…そうでしたか。
前回の質問がどんなものだったか分かりませんが、私の質問もたぶん十二分にマニアックなものなので、まあ良かったのかな。おそらく荒俣さんを交えて内輪の懇親会などが開かれたであろうから、お願いして参加させてもらってもよかったが、私はこの日、後に別の用事があったので、叶わなかった。
荒俣さんはテレビなどで見るとおり、とてもお話が達者で、自分の話す内容が自分で面白くて仕方がないというような、聞いていて引き込まれるお話ぶりだった。伊東忠太についての知見は得られなかったが、生で荒俣さんのお話を聞けたことはとても面白かった。そして荒俣さんの立ち位置も講演の結論も、あくまで 「もののあはれの建築探偵」 であった。
ここで告白すると、私は建築探偵団や、「建築と都市を考える会」での「街歩き」活動は、実はいまひとつ苦手なのだ。「おまえもこのブログで同じようなことをやっているだろう」 と言われると、まあその通りなんだが、個人の問題意識で活動するのは面白いが、集団で事例をただ集めることは面白くないのだ。例えば集めた事例をもとに皆で分類してみたり話し合ってみたりすると、がぜん面白くなるんだが、いまのところ建都会街歩きは、集めた事例をそのまま提示して終わりの 「街歩きファイル」 というフォーマット止まりなので、私には面白くないのである。
建築探偵=路上観察については実は批評できるほど詳しくないのであるが、何と言ってもパイオニアであるし(あるいは今和次郎を祖とする「中興の祖」?)以前に藤森照信さんの展覧会に行ったときに、路上観察の発足当時に、全員が燕尾服姿で路上に立って 「路上観察学会宣言」 を読み上げている写真を見ているので、「そこまでの本気には誰も文句は言えないなあ」 という気がする。
しかし建都会の 「街歩きファイル」 にはまずもって、それを見てくれる一般の人々の、街への関心を喚起しようという意図がある。今回の荒俣さんの講演の結論も同様のものであったし、建都会が昨年のグループ作品展 『景観しよう!』 や先日の近代建築シンポジウムで主張してきたことも、まったく同様のことである。
長岡でこのように同時多発的に、同じ主張がなされる機会があったということは、実は凄いことなんじゃないだろうか? これらを経験した一般市民の誰かから、身近な街への働きかけの、何か新たな動きが発生したとしても、まったく不思議ではない。
そして私個人にとっては、今回荒俣さんによって 「すべての街の装飾には、呪術的・精神的な意味がある」 という視座を与えてもらった。いったんそのように街を捉えると、一気にチャンネルが拡がったような見え方になるではないか…!
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