取り急ぎですが
当日の動画記録をもとにした修正版です。
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平山 「各建物を見た感想をうかがったうえで、3つのテーマで議論したい。
1、昭和20年代・30年代の建築の、一般的な意義について。
2、昭和20年代・30年代の建築が、今なお街中に存在し、使われ続けているということには、どういう意味があるか。
3、それらは今後どうなっていくか。どう扱っていくべきか。
ではまず、建物の感想を」
永原 「私は新潟市の出身だが、長岡は文化が豊かだというイメージを持っていた。旧市庁舎はシンプル。高い塔はランドマークとして役立ったのではないか。厚生会館は市庁舎での経験を生かし、積雪対策の足元の処理などに、より進歩を感じる。打放しのコンクリートも、建設当時のものがそのまま生きている箇所が随所に見られる」
中谷 「どちらも懐かしさを感じる建物。と言っても既視感という意味ではなく、もっと根源的・本質的に懐かしい。
市庁舎は明治の擬洋風建築を連想させる。とくに佐久の中込学校に通じる清廉潔白さがある。厚生会館は、伝統論争が盛んだった時代背景とともに、『民家』 『大きな屋根』 というデザインソースを感じさせる。コルビュジェのソヴィエトパレス計画案のアーチの影響もあるかもしれない」
平山 「擬洋風との関連についてもう少し」
中谷 「地域の技術者(大工)が西洋建築を観察し、それを咀嚼吸収して木造で表現したのが擬洋風建築だが、それと同じような姿勢を感じる。アプローチの正面に塔を設け、あわせてバルコニーを設けるという特徴も、共通している」
五十嵐 「石本喜久治の作品をちゃんと見たのは初めて。いま 『窓学』 というものをやっているので、丸窓の名手の石本は興味深い。
市庁舎は石本の建築の特徴であり、また地方において求められることの多い 『塔』 が採用されている。そうすると権威的になりがちだが、平面をカーブさせたり屋根階のデザインを変化させるなど、対称性を上手に崩し、親しみやすい建築にしている。
厚生会館は、おむすびみたいな形でかわいい。アーチが印象的だが、正面から少しセットバックさせて威圧感を軽減している。その正面と、力強い列柱に支えられた側面では印象がかなり違う。正面にごく小さなバルコニーがあるのも、カワイイ」
平山 「塔や尖った形は、卒業設計以来の石本の大事なモチーフだったのではないかと思う。
さて、1番目の議題として、旧市庁舎は昭和30年、厚生会館は昭和33年の竣工だが、昭和20年代・30年代の建築の一般的な意義について、どう思うか」
永原 「石本事務所にとってのその時代ということで言えば、戦後から復興するという時勢において、公共建築に大きなちからを注いでいった時代である。
建築一般で言えば、私が建築を学んだ時代でもあり、丹下・前川・坂倉・菊竹らが活躍し、建築表現のメインは、特に打放しコンクリートであった」
中谷 「歴史を超えてきた建築にはふたつの共通点がある。ひとつは建築として普遍性があること。もうひとつは愛されていること。
先ほど話した擬洋風と、昭和20年代・30年代の建築には、『時代の要請を満たす建物が緊急に求められた』 という共通点がある。
鉄筋コンクリート造には、そこにある石灰と土砂を捏ねて作ったような 『ものの作られかたの根源性』 がある。昭和20年代・30年代の打放しコンクリートには、その根源性がよく表れている。そういった、逆境を越えていくようなコンクリートの迫力は、昨今のきれいな打放しには無くなってきた」
五十嵐 「先日までコミッショナーとしてヴェネチア建築ビエンナーレに参加していたが、会場の 『日本館』 は、吉阪隆正の設計により1950年代に建てられた。当時の日本の国力からすれば異例の快挙であるが、ブリジストンの資金援助もあり実現した。石本が設計にかかわった広島市民球場も、広島市民からの募金が建設資金となった。
昭和20年代・30年代には、人々はそうやって建築に思いを込めてきたが、現代ではそのような思いは失われたのかもしれない。
昨今、東京タワーが映画の影響などで再評価されているが、同時代の他の建築はあまり注目されず、東京タワーがひとり勝ち組の状態である。そうした現象も起こっている」
平山 「旧市庁舎も厚生会館も、シンプルであるが、そのぶん建てた人々の 『がんばった感』 がひしひしと感じられる建築である。
では、2番目の議題として、昭和20年代・30年代の建築が今なお現存し、利用されているということには、どのような意味があるのか」
中谷 「重要な建築作品さえ残せば、他の建築は壊してよいのか?それは保存における差別ではないか?という問題は、以前から存在している。
人々の思いの変化とともに、建築の扱いも変化する。旧日本政府によりソウルに建てられた朝鮮総督府庁舎は、第二次大戦後もアメリカ軍や韓国政府の施設として、また博物館として利用され続けてきた。しかし残すべきか残さざるべきかの激しい議論の末、取り壊されることになった。建物をどう扱っていくかは、設計者の論理よりも使用者の論理を重んじよ、という考え方もある」
五十嵐 「大阪・船場で行われた建築シンポジウムでは、以下のようなことが話題になった。
1920~30年代の建築は、わかりやすいモチーフの装飾などが多く、一般の人々が親しみ易い面があり、壊されず残って使用されているケースも多い。ところが、それに続く1950~60年代の建築は、目だつ装飾も無くどこに注目すべきか取っかかりが持ちづらいところがあり、その結果どんどん壊されて数が減っているという。(都市計画学者の中島直人氏は、それを 『続近代建築』 の危機 と、面白い表現をしていた。)
建築にどう注目し、愛着を育てていくかが重要なポイントである」
平山 「永原さんが設計した建築作品にも、壊されるものが出てきているのではないか?」
永原 「それについては悲しく感じる。
しかし建築は多様な価値基準のもとに存在する。文化的価値に加え、不動産としての価値、街並みを形成する価値、コミュニティに貢献する価値・・・
それらの価値が時代とともにズレてしまったとしたら、その建築が無くなってしまうのも、いたしかたないのかもしれない。
だが、今回の厚生会館の場合は、この場所はもともと長岡城の本丸があった土地であり、厚生会館が取り壊された後にはシティホールが建てられる予定である。お城だった土地の文脈が、再び新たに受け継がれていくということは評価したい」
中谷 「1950~60年代の建築が減ってきていると言っても、現存する明治の建築に比べれば、圧倒的に数が多い。だからと言って、気安く壊していいという訳ではないが。
私は、90年前にある人が訪れて本にまとめた全国の民家を、再訪・調査する活動をしている。(ブログ筆者注:ある人とは今和次郎のことと思われる) 対象となる約60軒の民家のうち、すでに約40軒の場所を特定して訪れた。すると驚くべきことに、そのうちなんと7割が今も現存し、使われていた。
共通していたのは、そこに住む人々が、『古い貴重な建物を扱う』 という意識などは全然無く、『日常的に、ごく普通に』 民家を使っていたことである。
自覚を持つことより、理屈抜きで普通に使いこなすことの方が重要なのかもしれない。文化財とみなされて保存運動が起きたりする段階は、実は末期的とも言える。ちょっと引いた視点が必要。保存運動ではなくその手前の、普通の状態が良い。
旧長岡市庁舎も厚生会館も、今日も市民が普通に利用している光景をたくさん見ることができ、好感を持った。『これをなぜ壊す必要があるのか・・・』 という気もする」
五十嵐 「たとえ廃墟になったとしても、残ってほしい建築というものがある。そういったものは廃墟のままであっても、ある時代に突然よみがえって建築として再び使われることがある。パリのオルセー駅舎は、その役目を終えた後も解体されることなく、ずっとそのまま放っておかれていた。それがあるとき素晴らしい美術館としてよみがえり、世界中の人を集めている。
使われなくなっても、すぐに壊してしまわずそのままにしておくという選択肢もある。しかし日本の社会の仕組みとして、壊すことを前提にすると予算がつく、というところがある。
宮崎県の都城市民会館は、菊竹清訓が設計した力強い傑作建築だったが、解体の話が持ち上がっていた。保存運動も盛んに行われたが、結局、取り壊されることが決定した。ところが、都城にキャンパスを移転する大学が、市民会館を大学の施設として利用したいと申し出て、一転して市民会館は存続利用されることになった。こういうケースもある」
平山 「もうこの話題に入っているような気もするが、3番目の議題として、現存する昭和20年代・30年代の建物は、今後どうなっていくと思うか。どう扱っていくべきか」
中谷 「『解体しやすく作られた建築』 というのは、実は 『修理しやすい建築』 でもあり、結果として長く残る建築になる。『解体しにくいように、長持ちさせようと』 作った建築のほうが、こまめな修理がしにくく、すぐに解体せざるを得なくなる、ということが起こりうる。
木造では、柱寸法が4寸角のものは、他の部材を接合したり転用したりという余裕(=冗長性)があるので、建物は長く利用される。しかし柱を3寸5分という寸法で建てると、経済的かもしれないが、そういった 『冗長性』 や 『遊び』 に欠けるので、早くに壊されてしまう。
昭和20年代・30年代の建築は、切迫した時代状況下に建てられたがために、(力強い存在感をそなえてはいるが、)もしかしたらそうした冗長性に欠けるきらいがあるのかもしれない。建築を設計するときに、経済性や効率のみを重視してギリギリの設計をするのではなく、少し余裕を持たせた設計をしても良いのではないか」
永原 「話としてはわかるが、それは現実の世の中では、なかなかむつかしいことだと思う。
古い建物を残そうとした場合、安全上・環境上の問題をクリアしなければならない。その結果、姿がまったく違ったものになってしまったら、保存の意味をなさない」
(終演時間が近づく)
平山 「それでは最後に感想を」
永原 「今日、旧市庁舎と厚生会館を訪れてみて、竣工当時から今日まで市民にずっと利用されているのを知り、驚きと感謝の気持ちを持った。厚生会館はこれから取り壊されるが、この建物は長岡の文化に充分貢献したのではないかと思う」
中谷 「今日のような、建築の 『とむらいの会』 に呼ばれることがあるが、正直なところ、あまり出席したくはない。私も東京で地道な活動をしているので、長岡の人もぜひがんばってね!と言いたい」
五十嵐 「厚生会館は竣工当時、強い思いを込めて建てられた建築である。なので、そのあとを引き継ぐ建築は、ぜひがんばって良いものにしていただきたい」
平山 「石本事務所にて旧市庁舎の図面を見たとき、1階に診療施設が、地下にレントゲン撮影設備があったことを知り、非常に驚いた。役所にそのような施設が併設されているのはたいへん異例である。
旧市庁舎は平面計画は一見シンプルだが、そういった市民の健康への配慮や、建物をカーブさせるなど、親しみやすい建築を実現している。厚生会館にも同じ理念が生きている。今後これらの建物がどうなっていくのか、最終的に決めるのは市民の皆さん自身である」
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