日帰り東京訪問記
■ギャラリー間 『安藤忠雄 建築展』
(ネタばらしあり注意)
展示の目玉は原寸大で再現された 「住吉の長屋」。既存のギャラリー空間をたくみに使って構成されていた。
私は東京行きの電車の中で平面図を描き写して予習し、会場に入場して、さっそく長屋の内部に入ってみた。実物の建築のコンクリート打放し部分は、展示ではほとんどが型枠ベニヤに置き換えられて再現されていた。(床は既存ギャラリーの石張りのまま、中庭の階段部分は実際にコンクリート打設+踏み板に玄昌石)
しかし、そもそも型枠ベニヤには素材のちからがあること、セパ穴・目地・建築化照明などが忠実に再現されていること、建具に本物のスチールサッシを使っていること、といった理由で、安藤建築の特徴である 「素材の数が絞られた、緊張感に満ちた空間の質」 が、まったくゆるぎ無く再現されていた。
(後日訂正:展覧会に再訪して見直したところ、建具は、木建具+EPの「なんちゃってスチールサッシ」でした。)
本物の 「住吉の長屋」 の内部に入れる機会は、まず無い。しかし、空間の質・スケールともに忠実に再現された展示の内部空間に身を置くことで、この住宅をかなり正確に 「体験できた」 ような気がする。それにより、いろいろと考えることができた。
安藤さんがこの住宅を説明するときに、「この中庭は、住宅に自然を取り込む装置である」 という言葉をよく使われている。私はそれを 「中庭イコール自然」 なのかと思っていた。しかし実際に中に入ってみると、中庭によってたしかに通風と採光が居室に確保されていたが、中庭は私の考えていたように自然そのものではなく、まさに自然を取り込む 「装置」 であった。その点を私は誤解していたようだ。
特に印象的なのは、中庭を囲んでいる2層分の壁の存在だった。壁により天空が切り取られた中庭は、ジェームズ・タレルのアートワークを彷彿とさせたし、なにより 「安藤」 を強く感じさせるものだった。私は中庭はもっと 「自然な存在」 かと予想していたが、要するに、住環境としてはたいへん独特なのだ。
私が建築を学んできた過程で、「住吉の長屋」 というのは半ばイコン化した存在だった。しかし実は、この住宅はたいへんな特殊解であるということが、今さらながら理解できた。図面や本からの解釈は狭く、体験すればまっとうに認識できる。
あらためて安藤さんの設計趣旨文と実際の空間とを比べてみると、「きわめて単純な構成と最小限の要素による、複雑多様な空間体験」 「閉ざされた箱の中に、自然を抽象し取り込む装置を組み入れる」 といった設計の意図が、この住宅において、まさにこれ以上ない純度で実現していることが体験できた。
それにしてもこの住宅は変わっている。中庭の存在が、内部の完結を決定付けている。中庭は自然を取り入れるが、中庭自体は自然からは完全に変容していて、他に類を見ない独特の存在で、どちらかと言うと私には 「不自然さ」 を感じるほどのものだった。だって自然の開放感を味わいたかったら、おもての路地に出た方がいいもんね。
この住宅はきわめて単純なだけに、考えも尽きない。大阪の密集した木造長屋群の一角に、このように完結した一戸の特殊な住環境を出現させたことに、あらためて驚きをおぼえる。しかし、この住宅の空間の骨格である寸法・スケールは、設計者がゼロから設定したのではなく、「長屋の一戸の建替え」 という与条件が決定したものである。設計者はその与件に誠実に対応したと言える。
「住吉の長屋」 は、長屋の建替えという前提のもと、コンクリート打放しという工法と表現、(詳しくはわからないが)施主からの要望といった諸条件を、ひとつひとつクリアしていった結果が、あのような緊張感と完成度の住宅に到達したことがわかった。条件をクリアしていくことの積み重ねは、他のどんな住宅においても同じことであるが、「住吉」 の場合は、到達点の高みというか、そのバランスの危うさというか、それこそがこの住宅が語り継がれる存在である所以なのかな、と思った。
そして、今回私がギャラリーに来る前に、眺めるために何度目かの訪問をした、西沢(立)さんの某住宅を目の当たりにしたときも、諸条件の解決のバランスという点において、まったく同様の感想を持った。
安藤展は12月20日までやっているので、できることならもう一度訪れたいと思う。
■21_21 DESIGN SIGHT 吉岡徳仁ディレクション 『セカンド・ネイチャー』 展
(ネタばらしあり注意)
吉岡徳仁のインスタレーションは、とにかく息を呑むくらい圧倒的に美しかった。新作のイスは、結晶作用のハプニング的造形によるもので、この作品の展示もたいへん美しかった。だが 「この手法を展開させるのが、なぜイスでなければいけないのか? なぜヴィーナス像で、なぜシューベルトの曲でなければ?」 という疑問も非常に強く感じた。結晶作用はとても興味深い手法なので、既存の価値と結びついた展開にとどまっているのはもったいない気がした。ただ私が見るに、吉岡さんはずっと予想もつかない進化を続けてきた人なので、今後これがどのように展開していくのか目が放せないと思った。
吉岡さんの 「CLOUDS」 というインスタレーションは、すごくローテクノロジーだが、作品の美しさは尋常ではなかった。作品に用いられるテクノロジーとその結果との関係は、私が先日の長岡シンポをきっかけに知った中谷礼仁さんもおっしゃっているが、一考に価する観点だと思う。要するに、往々にしてローテクノロジーの方が精神性を込められる、ということだ。
そのことは 『セカンド・ネイチャー』 での、ロス・ラブグローブの作品を見たときに、逆の意味で考えさせられた。作品は骨の造形原理を再解釈し、それをレーザー光造形の手法で作品にかたちづくるというものだった。私が見たところ、まだ光造形というハイテクノロジーを 「扱うことが目的」 という段階で、作品としてはあまり興味を引かれるものではなかった。私は手元に骨格標本を置いて、いじって眺めているので知っているが、本物の骨の魅力には遠く及んでいない気がした。と言って、光造形という手法に批評性を持って取り組んでいるというわけでもなかった。製作過程を紹介するムービーを見ると、作品の形成段階でどうしてもできるモールド(プラモデルの「バリ」状のもの)を、あとからきれいに取り除いていたが、でもそれは付けっぱなしのほうが、光造形技術への批評性があってずっと面白いのにな、と思った。
しかし何にせよ光造形は発展途上の技術なので、このさき進歩したら、同じ考えで作られた作品も、より面白いものになるのかもしれない。
手段と結果のバランスが絶妙にうまくいっている作品を見つけるのは、案外むつかしい。その意味で私が 『セカンド・ネイチャー』 で面白かったのは、21_21のロビーのパソコンでの、岡田栄造さんによる展覧会趣旨の宣言文だった。毛筆調のモーションタイポグラフィで、岡田さんの宣言文がディスプレイ上に次々と生成されていた。これは私にとっては、手段のテクノロジーの具合と、言っている内容と、そのバランスがとても面白かった。(若干テキストが長かったけど)
21_21では、「住吉の長屋」 とは別の安藤忠雄さんの空間も体験できたし、上に書いてきたような、建築設計にも通じる 「テクノロジーと結果との関係」 について、作品を通していろいろと考えることができたので、とても楽しかった。
■ 旧山田守邸・蔦珈琲店
石本喜久治からの 「分離派つながり」 で、山田守の自邸が、現在は喫茶店として営業しているということなので、行ってみた。
私は山田守についてはほとんど何も知らず、聖橋や新潟市の万代橋の設計者であるという知識ぐらいしか持ち合わせていなかったが、とにかく行ってみた。
喫茶店に入りカウンターに座って食事を注文した。「がんばった感」 とか 「ローテクノロジーと精神性」 とか、建物環境からそういったことを感じ取れたらと意識したが、初めて訪問したかぎりではよくわからなかった。だが、旧長岡市庁舎や長岡市厚生会館に通じる建物の雰囲気は感じ取ることができた。
店には山田守の作品集が置いてあり、私はそれを読んで、この喫茶店はピロティ部分への増築であることを知った。作品集によって、この自邸は1959年に建てられたこと、山田さんが65歳になるまで自邸を建てる機会を躊躇していたこと、「不燃化立体化と美しい環境を造ることに協力する様な家を造って置けば、将来も何かに利用されるであろう」 という考えのもとに建てたことがわかった。その住宅が時を経てこうして喫茶店に姿を変え、そこに入って食事をしていると、先ほどの山田さんの考えに、大いなる説得力を感じることができた。
余談だが、ここで注文したカレーセットが、この日初めてのちゃんとした食事だったので、たいへん身に沁みた。
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