【2010年8月7日(土)】
喜界島から鹿児島市へ戻るフェリーに乗る僕を、送ってくれた友達は、引き上げていきました。丸二日間も島を案内してくれた友達に、感謝したいと思います。
待合室で出港を待ちます。けっこう大勢の人が、フェリーに乗るようです。
やがてフェリーが入港してきました。桟橋に並んで乗船を待ちます。周りにはいろいろなお客さんがいます。多くの人が「喜界島」とプリントされた大きな袋を提げています。
喜界島の家族か親戚に会いに来て、そしてまた帰るというような人たちが、大勢いるようです。皆さん見送りにきた親族らしき人と、わいわいと話をされています。
そしてなにか高校の運動部の合宿でもあったのでしょうか、それっぽい服装と荷物を持った一団を、たぶん宿の人が見送りに来ていて、声を掛け合いながら乗船を待っています。
そうして過ごしていると、船の準備が整ったようです。お客さんの列はタラップを進みます。僕も乗船しました。
甲板に出てみました。他のお客さんも甲板に出て、眼下の港で見送る人に、手を振り続けています。
船は、港を離れました。お客さんたちと見送りの人たちは、笑顔で手を振りあっています。
スポーツ高校生が、「きかいじま、さいこー!」と、大声で叫びました。
このときばかりは、ひとりぼっちで、
僕はとてもさびしかったです。
行きの船と違い個室は取らず、帰りの船は一般の船室チケットを買いました。大部屋の船室で、老若男女問わず雑魚寝のようです。自分のスペースと毛布を確保して荷物を下ろし、横になりました。
声高に会話できる雰囲気では、あまりありませんでしたし、僕も誰かに話しかける気が起きずにいました。なにより僕自身が、島でのいろいろな出来事を、まだまったく消化できずにいました。
朝が来ました。
島で買っておいた油ぞうめんで、朝食にしました。
数日前に見たのと同じ場所を通って、船は鹿児島港に入っていきました。
鹿児島市に上陸しました。
しばらく前に数日間を過ごした鹿児島の町でしたが、なにか薄皮一枚よけいに貼られたように、違ったふうに見えました。
中央駅まで歩きました。
さあ、これからどうしようか。何にせよ先に進もうか。
鹿児島には九州の西側を通ってきたから、今度は東側を行ってみようか。
JR日豊本線の最後尾の車両から、遠ざかっていく桜島が見えます。初めて見る北の方角からの桜島の眺めです。僕はボーッと眺めていました。
電車に揺られながら、まだ島のことを考えていました。
都城では、菊竹清訓さんが設計した市民会館の姿が見えました。「王蟲」を連想するような形の建物のことです。実物は初めて目撃しました。
乗り継ぎをしながら、電車に乗り続けました。得体知れずの感情を引きずりながら。
これは何なのでしょうか。
島では色々なことがありました。
友達との再会。いろんな出会い。島の暮らし。
友達が語っていた高倉への思い。
島の産業や生産物。それらが島という「ワン・パッケージ」の中で営まれているようにも見えたこと。片道10時間もの海路。
フェリーで島から出る人たちの、不思議と明るい別れかた。「きかいじま、さいこー!」の掛け声。僕も叫べるものなら、なにか叫びたかったのか。
いま胸にある感情の、理由はこれらのどれかなのか。
理由はこれらの全てなのか。
「もう少し、滞在しておけばよかった」という判断の迷いなのか。
電車は大分県に入っていました。少し夕暮れも近づきました。
佐伯や臼杵を通るころには、車窓から特徴ある町並みが見えました。
瓦屋根の目地に白い漆喰を盛り上げた家が並んでいます。宿場町か、あるいは城下町なのでしょう。うわさには聞いた事があります。とても良さそうな町並みです。
降りるか?どうする?まあいいや。
不思議とその気も、起きません。
夏の陽もだいぶ暮れて、大分市で電車を降りました。今日はこの町で、眠ろう。
駅前には七夕の飾りつけがされていて、町には人が大ぜい出ていました。ごはんを食べ、安宿を見つけました。
そうして、部屋で、
トシユキさんの三線を鳴らしました。
(旅に関する記事は、ラベル「2010年の夏旅」をご覧ください。)
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