ごぶさたしていました。申し訳ありません。
昨年(2010)旅記録の再開です。
旅はちょうど折り返しの頃です。
【2010年8月2日(月)】
旅の10日目
鹿児島県・宮之城温泉で明かした翌朝は、強い雨になりました。
鹿児島市方面を目指すバスに乗ります。
さて、江戸時代、鹿児島藩は防衛政策として藩内を区分して、地方に藩士を定住させました。藩の中枢には鹿児島城があり、それ以外の地方の領地は外城(とじょう)と呼ばれました。
外城では、藩士はふだんは農業などに従事して自活しながら、非常時に備えました。
外城の藩士が住んだ屋敷町を「麓(ふもと)集落」と呼びます。
鹿児島藩内には数多くの麓集落がありましたが、
そのうちの一つが、「入来麓武家屋敷群」です。
バスを乗り継ぎ、薩摩川内市の旧・入来町(いりきまち)に降り立ちました。
雨は変わらず強く、地元の郵便局でわけを話して、貸し傘を使わせていただきました。
看板の地図を描き写し、まちあるき開始です。
ところで、僕はこの旅で、確かめたかったことがありました。
「単体の住宅と、まちとのつながり方」です。
道路に面した1階の掃き出し窓などで、住宅をまちに直接つなげていいものか?というのは、日頃感じる大きな疑問です。あるいは塀で街路から完全に閉ざすという方法にも、できれば与したくないと考えてしまいます。
その中間…まちと住宅を、なんとか柔らかくつなげる方法はないものか…僕がいつも考えている問題意識です。
参考になる先例が、各地に残るまちなみにあるかもしれません。
鹿児島の麓集落の住居は、どうやら街路を上手に自分の敷地に取り入れている「らしい」ということに、調べあたりました。沖縄の古民家には屏風(ひんぷん)という街路と住居を上手につなげる仕掛けがあるそうですが、同様のものが、麓集落にもあるようです。
現代地方都市のまちなかに新築される住宅と、江戸時代の地方武家とは、敷地条件からなにから違うので、直接比較するのは乱暴です。しかしチャンスがあるなら、まずは現地に身を置いて、実例をこの目で見てみたいと考えていました。
そんな思いを胸に、入来麓に来たのです。
入来のまちなみです。
通りのことは「馬場」と呼ばれているようです。
集落の中央を中ノ馬場(なかんばば)が通り、そこから枝のように馬場が分かれています。
それぞれの武家屋敷は、玉石の石垣で囲われています。石垣のてっぺんには生垣(イヌマキや茶など)や、花が植えられています。敷地の入り口に門が造られている屋敷もあります。
「敷地の入り口部分を、鍵の手に曲げてつくっていること」
これが、武家屋敷とまちのつながり方の特徴のように感じました。
一例のスケッチです。(目測なので寸法は目安です。)
街路から屋敷内に引き込まれた石垣は、鍵の手に曲がり、そこでいったん断ち切られています。その部分の石垣が、外からの視線(と、行動)を、受け止める役目をしています。
石垣が高くない場合は、向うに屋敷が少し見てとれます。
また、曲がりながら・見え隠れしながら・奥へと続く通路も、視線と意識を屋敷へとつなげています。
中ノ馬場にある、印象的な茅葺きの門です。
「鍵の手を受け止める役割」を、ここでは石垣ではなく生垣が果たしています。
鍵の手のアプローチを設けること、視線と行動をなにかで受け止めることは、まちと屋敷を直結しているのでも、完全に分断しているのでも、ありません。
麓集落の武家屋敷は、侵入する敵勢力からの防衛を念頭につくられているはずです。見通しを一度に効かせない「鍵の手」という空間形式は、防衛目的のために、城下町の街路ではよく見られる形式です。
つまり麓集落の門廻りは、「まちと家を柔らかくつなげる」といった生易しいものとは、本来は違うはずです。それでも僕の問題意識に参考になる事例であることは、間違いありませんでした。
道の分岐点にあった「石敢当」
魔除けとして置かれていると思います。
石敢当には、この後の旅で訪れたいくつかの町でも出会いました。入来のこの写真では「せっかんとう」とルビが振ってありますが、別の町では「いしがんどー」と呼ばれていました。
馬場には、色々な名前が付けられていました。この場所は、風の通り馬場(かぜんとおいばば)といいます。とてもそそられる、面白い名前ですね。
もともと風の通り道だったために、このように名付けられたのか、あるいは風の通り道として人為的につくられた馬場なのか…
真相を確かめることはできませんでした。この日は月曜日であり、入来の郷土博物館が休館していたという事情もあります。
午前中を入来で過ごし、鹿児島市行きのバスに乗るころには、雨は上がっていました。
旅の10日目・後編の記録へと続きます。
(旅に関する記事は、ラベル「2010年の夏旅」をご覧ください。)
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